SPORTSよこはまVol.11:特集(2/3)
女子長距離・マラソン選手の育成と国際親善を目指して始まった横浜国際女子駅伝。女子の駅伝というスタイルと横浜の名所を巡るコースは他に類がなく、国内外から注目を集めました。その大会の歴史を振り返ってみましょう。
開催までの経緯
横浜国際女子駅伝は、1980年代に健康のために走ることが注目されジョギングブームが起きたことを背景に、ニューヨークやロンドンなど世界各都市でマラソン大会が開催される中で発案されました。
1981(昭和56)年に日本陸上競技連盟より「1983年3月に国際女子駅伝を開催すること」が正式に承認されました。その大会にふさわしい会場として、国際都市横浜が選ばれました。
それから2年後の1983(昭和58)年3月20日、国内外における女子長距離・マラソン選手の育成と国際親善を目指し、第1回横浜国際女子駅伝大会が開催されました。記念すべき第1回大会には、海外の9チームを合わせて20チームが出場し、当時のソビエト連邦が優勝しました。
この大会の開催によって駅伝は国際的なスポーツとなり、世界における駅伝大会開催のきっかけになったとも言われています。(参考文献:「横浜スポーツ百年の歩み」)
過去の参加選手
横浜国際女子駅伝の第1回大会が開かれた翌年の1984(昭和59)年のロサンゼルス大会から女子マラソンがオリンピック正式種目となるなど、女子長距離界が発展したことに合わせて多くの著名ランナー達が横浜国際女子駅伝に出場しました。
外国人選手では第4回大会(1986年)で当時のマラソン女王ロサ・モタ(ポルトガル)が見せた8人抜きや、第5回大会(1987年)でのクリスチャンセン(ノルウェー)とクーニャ(ポルトガル)による激しいデッドヒート、第22回大会(2004年)でエチオピアを初優勝に導いたツルなどが沿道を沸かせました。
そして日本人選手では、後にオリンピックのマラソン競技で金メダルを獲得した高橋尚子や野口みずきを筆頭に、浅利純子や土佐礼子など、世界レベルのメダリスト達が横浜の街を駆け抜けました。(敬称略)
(左)クーニャ選手
(右)クリスチャンセン選手(1987年) 野口みずき選手
(2000年・日本代表)
コースの変遷
横浜国際女子駅伝は、変わりゆく横浜の街と共にそのコースも変遷をたどりました。
第1回大会から2002(平成14)年の第20回大会までは、横浜スタジアム(中区)がスタート・ゴール地点でした。 スタジアムのグラウンド内に仮設の陸上トラックを設置し、特設陸上競技場として使用していました。
2003(平成15)年の第21回大会からは、横浜の新しい観光名所として生まれ変わった赤レンガ倉庫にスタート・ゴール地点を移しました。横浜の歴史を感じさせる風景をバックに世界の女性ランナー達が走る姿は、国際都市横浜を象徴するような光景となりました。
また折り返し地点は八景島開業に伴い八景島シーパラダイスに変わりました。
横浜スタジアムでのスタート風景(1992年) 赤レンガ倉庫でのゴール風景(2008年)
新たな女子マラソンの歴史が横浜で…
20年以上にわたり数々の名ランナーやドラマを生み、そして多くの人々に親しまれた横浜国際女子駅伝も、今年で幕を下ろします。そして11月には横浜を舞台とした国際女子マラソンの第1回大会が開催されることが決定されています。駅伝からフルマラソンへと形を変え、女性達の新たな戦いが横浜で繰り広げられることになります。
開港150周年を迎える節目の2009年、横浜で一つの歴史が終わりを告げ、新たな歴史が刻まれます。
横浜国際女子駅伝の思い出
横浜国際女子駅伝の設立当初から大会運営に携わり、その歴史を見つめてきた横浜市陸上競技協会顧問の安成轍郎さんにお話を伺いました。安成さんは記念すべき第1回大会では、スターターという大役を務めました。
私は自宅をホームステイの場として外国人選手を招待しましたが、中でも次の2名の選手のことが非常に印象深いです。一人はアメリカ代表のパティス・プラマー選手(後のソウル・バルセロナ五輪代表)。彼女は選手であると同時に弁護士を目指していて、食事の時も本を読んで勉強していた姿を覚えています。滞在中に日本式の布団を大変気に入り、結局我が家の布団に枕を添えて、ダンボールに詰め込んで持ち帰りました。帰国後もスタンフォード大学の卒業式や、結婚式といった人生の節目に招待状をいただきました。彼女は現在2児の母親です。
もう一人、忘れられないのは中国代表の王華碧選手です。王選手は中国が初優勝した第7回大会(1989年)で、区間賞を獲得しました。その大会の後、帰国した彼女から1通の手紙が私の元に届きました。日本で私のコーチを受けたい、という希望がしたためられていました。ところが私は400メートル障害の選手だったため、長距離を指導することはできません。そこで松下通信工業(当時)の横溝三郎さん(現・パナソニック女子陸上競技部顧問)に相談し、彼女の指導を受諾していただきました。しかしその年に天安門事件が起こり、彼女の来日は実現しなかったのです。12月には彼女から「あきらめる」という手紙が届きましたが、横溝さんは「時機を待とう」と言ってくれました。翌1990年北京で行われたアジア大会の後、遂に彼女は再来日を果たし、我が家に滞在しました。日本語学校に通いながら実業団駅伝などで活躍し、引退後は浜松市のスズキ陸上競技部で通訳兼コーチを務めています。今でも家族ぐるみの交流があり、私と妻は彼女にとって、まさしく「日本のお父さん、お母さん」ですね。
女子長距離・マラソン選手の育成と国際親善を目指して始まった横浜国際女子駅伝。女子の駅伝というスタイルと横浜の名所を巡るコースは他に類がなく、国内外から注目を集めました。その大会の歴史を振り返ってみましょう。
開催までの経緯
横浜国際女子駅伝は、1980年代に健康のために走ることが注目されジョギングブームが起きたことを背景に、ニューヨークやロンドンなど世界各都市でマラソン大会が開催される中で発案されました。
1981(昭和56)年に日本陸上競技連盟より「1983年3月に国際女子駅伝を開催すること」が正式に承認されました。その大会にふさわしい会場として、国際都市横浜が選ばれました。
それから2年後の1983(昭和58)年3月20日、国内外における女子長距離・マラソン選手の育成と国際親善を目指し、第1回横浜国際女子駅伝大会が開催されました。記念すべき第1回大会には、海外の9チームを合わせて20チームが出場し、当時のソビエト連邦が優勝しました。
この大会の開催によって駅伝は国際的なスポーツとなり、世界における駅伝大会開催のきっかけになったとも言われています。(参考文献:「横浜スポーツ百年の歩み」)
過去の参加選手
横浜国際女子駅伝の第1回大会が開かれた翌年の1984(昭和59)年のロサンゼルス大会から女子マラソンがオリンピック正式種目となるなど、女子長距離界が発展したことに合わせて多くの著名ランナー達が横浜国際女子駅伝に出場しました。
外国人選手では第4回大会(1986年)で当時のマラソン女王ロサ・モタ(ポルトガル)が見せた8人抜きや、第5回大会(1987年)でのクリスチャンセン(ノルウェー)とクーニャ(ポルトガル)による激しいデッドヒート、第22回大会(2004年)でエチオピアを初優勝に導いたツルなどが沿道を沸かせました。
そして日本人選手では、後にオリンピックのマラソン競技で金メダルを獲得した高橋尚子や野口みずきを筆頭に、浅利純子や土佐礼子など、世界レベルのメダリスト達が横浜の街を駆け抜けました。(敬称略)
(左)クーニャ選手
(右)クリスチャンセン選手(1987年) 野口みずき選手
(2000年・日本代表)
コースの変遷
横浜国際女子駅伝は、変わりゆく横浜の街と共にそのコースも変遷をたどりました。
第1回大会から2002(平成14)年の第20回大会までは、横浜スタジアム(中区)がスタート・ゴール地点でした。 スタジアムのグラウンド内に仮設の陸上トラックを設置し、特設陸上競技場として使用していました。
2003(平成15)年の第21回大会からは、横浜の新しい観光名所として生まれ変わった赤レンガ倉庫にスタート・ゴール地点を移しました。横浜の歴史を感じさせる風景をバックに世界の女性ランナー達が走る姿は、国際都市横浜を象徴するような光景となりました。
また折り返し地点は八景島開業に伴い八景島シーパラダイスに変わりました。
横浜スタジアムでのスタート風景(1992年) 赤レンガ倉庫でのゴール風景(2008年)
新たな女子マラソンの歴史が横浜で…
20年以上にわたり数々の名ランナーやドラマを生み、そして多くの人々に親しまれた横浜国際女子駅伝も、今年で幕を下ろします。そして11月には横浜を舞台とした国際女子マラソンの第1回大会が開催されることが決定されています。駅伝からフルマラソンへと形を変え、女性達の新たな戦いが横浜で繰り広げられることになります。
開港150周年を迎える節目の2009年、横浜で一つの歴史が終わりを告げ、新たな歴史が刻まれます。
横浜国際女子駅伝の思い出
横浜国際女子駅伝の設立当初から大会運営に携わり、その歴史を見つめてきた横浜市陸上競技協会顧問の安成轍郎さんにお話を伺いました。安成さんは記念すべき第1回大会では、スターターという大役を務めました。
私は自宅をホームステイの場として外国人選手を招待しましたが、中でも次の2名の選手のことが非常に印象深いです。一人はアメリカ代表のパティス・プラマー選手(後のソウル・バルセロナ五輪代表)。彼女は選手であると同時に弁護士を目指していて、食事の時も本を読んで勉強していた姿を覚えています。滞在中に日本式の布団を大変気に入り、結局我が家の布団に枕を添えて、ダンボールに詰め込んで持ち帰りました。帰国後もスタンフォード大学の卒業式や、結婚式といった人生の節目に招待状をいただきました。彼女は現在2児の母親です。
もう一人、忘れられないのは中国代表の王華碧選手です。王選手は中国が初優勝した第7回大会(1989年)で、区間賞を獲得しました。その大会の後、帰国した彼女から1通の手紙が私の元に届きました。日本で私のコーチを受けたい、という希望がしたためられていました。ところが私は400メートル障害の選手だったため、長距離を指導することはできません。そこで松下通信工業(当時)の横溝三郎さん(現・パナソニック女子陸上競技部顧問)に相談し、彼女の指導を受諾していただきました。しかしその年に天安門事件が起こり、彼女の来日は実現しなかったのです。12月には彼女から「あきらめる」という手紙が届きましたが、横溝さんは「時機を待とう」と言ってくれました。翌1990年北京で行われたアジア大会の後、遂に彼女は再来日を果たし、我が家に滞在しました。日本語学校に通いながら実業団駅伝などで活躍し、引退後は浜松市のスズキ陸上競技部で通訳兼コーチを務めています。今でも家族ぐるみの交流があり、私と妻は彼女にとって、まさしく「日本のお父さん、お母さん」ですね。