SPORTSよこはまVol.9:特集(2/4)
1998年長野オリンピックでスピードスケート界に革命が起きました。「スラップスケート(※)」というスケートシューズの登場です。しかし、日本選手がその使用を決めたのはオリンピックのわずか3か月前。限られた時間で靴を完成させる使命を担ったのは、横浜市瀬谷区で主にエンジン付自転車の製造・販売等を行っている(有)フキ・プランニング代表取締役の畔柳富士夫さんでした。
※スラップスケート…オランダで開発されたスケートシューズ。氷を蹴る時にブレード(刃)がかかと部分で離れ、バネ仕掛けで元に戻るスケートシューズ。
F1を経験して
今から約30年前、畔柳さんは会社でチームを組んでヨーロッパへ渡り、世界最高峰の自動車レースであるF1に参戦しました。ヨーロッパに長年根付いたF1の精神は、後に畔柳さんの生き方を決定づけることになります。
「私たちの車の部品が壊れてしまった時、別のチームが部品を貸してくれました。将来ビッグになった時、困った人に分けてあげて、と声を掛けてくれたのです。自分たちが勝つためにライバルを排除するのではなく、みんなで盛り上げよう、という雰囲気でした。」
レースは「勝たなければならない」という概念があった畔柳さんは、「チャンピオンだけが偉いのではない。みんなで楽しもう、というスポーツ本来の姿」に出会いました。
ポケットバイクの発明
2年間のF1参戦を経て帰国した畔柳さんは独立し、自身の会社を設立します。車に関わる仕事を模索していく中で、作り出したものが、世界初のミニチュアサイズのオートバイ、ポケットバイクでした。これは子どもが乗るのにぴったりな大きさで、ブームとなりました。
しかし畔柳さんは「自分たちだけで技術を独占してしまうと、その後発展しなくなってしまう」という思いから、特許は取得しませんでした。後にポケットバイクは世界に広がり、今ではヨーロッパで大会も開かれているそうです。
スピードスケートとの出会い
長野オリンピックを翌年に控えた1997年、畔柳さんにオリンピックのスピードスケート競技で使用する「スラップスケート」の製作依頼が舞い込みました。優れたカーボン加工技術を評価されてのことでした。
「スピードスケートを知らなかった」畔柳さんにとっては畑違いの仕事。しかし、新しいものを作り出すにあたり何でも試すことができたのが逆に良かった、と言います。レーシングカー製作に携わってきたノウハウを生かし、選手との打合せを重ねて選手一人ひとりに合わせたスケート靴を作り上げました。
製作工程
その工程は選手の足の形に合わせて、石こうで足型を作ります(工程<1>)。足型に合わせてカーボンを成型した後(工程<2>)、ブーツ部分の縫製は婦人服縫製の経験を持つ奥様が担当しました(工程<3>)。
夫婦の手作業によって急ピッチで完成し(工程<4>)、日本選手の手に渡ったスラップスケート。長野オリンピック金メダリストの清水宏保選手はじめ、岡崎朋美選手などトップ選手達が畔柳さんの手がけた靴でレースに出場しました。
工程<1> 石こうの足型 工程<2> 足型に合わせて靴底部分の
カーボンを加工します 工程<3> ブーツ部分を縫製します 工程<4> ブレードを付ければ完成!
これから
「ブレードの幅はなぜ1.1mmと決まっているの? ブレードを固定する位置はどうしてここなの? 研究の余地はいくらでもある」、畔柳さんの探求は続きます。
「選手の育成には1個人、1企業では限界がある。F1のように様々な役割をもった人がチームを組んで選手を育成していくシステムを作っていかないと」。その目はものづくりだけでなく、日本のスポーツ界を見渡していました。
日本で唯一製造しているモペットバイク
そんな畔柳さんの夢は? 「これからの高齢化社会に向けて、例えばアメリカのセグウェイ(※)のような社会に対応できる新しい移動手段を考えたい」。
若き日に培ったスポーツへの思いを胸に、畔柳さんの夢は果てしなく広がります。
※セグウェイ…アメリカで開発された電動立ち乗り二輪車
P R O F I L E
畔柳(くろやなぎ)富士夫さん
(有)フキ・プランニング代表取締役
ヨーロッパで2年間のF1参戦経験を経て帰国し、独立。
本業はエンジン付自転車「モペットバイク」の製造・販売他、自動車関連の業務を行っています。
1998年長野オリンピックでスピードスケート界に革命が起きました。「スラップスケート(※)」というスケートシューズの登場です。しかし、日本選手がその使用を決めたのはオリンピックのわずか3か月前。限られた時間で靴を完成させる使命を担ったのは、横浜市瀬谷区で主にエンジン付自転車の製造・販売等を行っている(有)フキ・プランニング代表取締役の畔柳富士夫さんでした。
※スラップスケート…オランダで開発されたスケートシューズ。氷を蹴る時にブレード(刃)がかかと部分で離れ、バネ仕掛けで元に戻るスケートシューズ。
F1を経験して
今から約30年前、畔柳さんは会社でチームを組んでヨーロッパへ渡り、世界最高峰の自動車レースであるF1に参戦しました。ヨーロッパに長年根付いたF1の精神は、後に畔柳さんの生き方を決定づけることになります。
「私たちの車の部品が壊れてしまった時、別のチームが部品を貸してくれました。将来ビッグになった時、困った人に分けてあげて、と声を掛けてくれたのです。自分たちが勝つためにライバルを排除するのではなく、みんなで盛り上げよう、という雰囲気でした。」
レースは「勝たなければならない」という概念があった畔柳さんは、「チャンピオンだけが偉いのではない。みんなで楽しもう、というスポーツ本来の姿」に出会いました。
ポケットバイクの発明
2年間のF1参戦を経て帰国した畔柳さんは独立し、自身の会社を設立します。車に関わる仕事を模索していく中で、作り出したものが、世界初のミニチュアサイズのオートバイ、ポケットバイクでした。これは子どもが乗るのにぴったりな大きさで、ブームとなりました。
しかし畔柳さんは「自分たちだけで技術を独占してしまうと、その後発展しなくなってしまう」という思いから、特許は取得しませんでした。後にポケットバイクは世界に広がり、今ではヨーロッパで大会も開かれているそうです。
スピードスケートとの出会い
長野オリンピックを翌年に控えた1997年、畔柳さんにオリンピックのスピードスケート競技で使用する「スラップスケート」の製作依頼が舞い込みました。優れたカーボン加工技術を評価されてのことでした。
「スピードスケートを知らなかった」畔柳さんにとっては畑違いの仕事。しかし、新しいものを作り出すにあたり何でも試すことができたのが逆に良かった、と言います。レーシングカー製作に携わってきたノウハウを生かし、選手との打合せを重ねて選手一人ひとりに合わせたスケート靴を作り上げました。
製作工程
その工程は選手の足の形に合わせて、石こうで足型を作ります(工程<1>)。足型に合わせてカーボンを成型した後(工程<2>)、ブーツ部分の縫製は婦人服縫製の経験を持つ奥様が担当しました(工程<3>)。
夫婦の手作業によって急ピッチで完成し(工程<4>)、日本選手の手に渡ったスラップスケート。長野オリンピック金メダリストの清水宏保選手はじめ、岡崎朋美選手などトップ選手達が畔柳さんの手がけた靴でレースに出場しました。
工程<1> 石こうの足型 工程<2> 足型に合わせて靴底部分の
カーボンを加工します 工程<3> ブーツ部分を縫製します 工程<4> ブレードを付ければ完成!
これから
「ブレードの幅はなぜ1.1mmと決まっているの? ブレードを固定する位置はどうしてここなの? 研究の余地はいくらでもある」、畔柳さんの探求は続きます。
「選手の育成には1個人、1企業では限界がある。F1のように様々な役割をもった人がチームを組んで選手を育成していくシステムを作っていかないと」。その目はものづくりだけでなく、日本のスポーツ界を見渡していました。
日本で唯一製造しているモペットバイク
そんな畔柳さんの夢は? 「これからの高齢化社会に向けて、例えばアメリカのセグウェイ(※)のような社会に対応できる新しい移動手段を考えたい」。
若き日に培ったスポーツへの思いを胸に、畔柳さんの夢は果てしなく広がります。
※セグウェイ…アメリカで開発された電動立ち乗り二輪車
P R O F I L E
畔柳(くろやなぎ)富士夫さん
(有)フキ・プランニング代表取締役
ヨーロッパで2年間のF1参戦経験を経て帰国し、独立。
本業はエンジン付自転車「モペットバイク」の製造・販売他、自動車関連の業務を行っています。