SPORTSよこはまVol.47:夢を信じて
横浜ビー・コルセアーズ 山田 謙治選手
あなたが子どもの頃に抱き続けた夢は? トップアスリートが子どもの頃に見ていた夢、そして夢を持つことの大切さを語る「夢を信じて」。インタビュアーはコラムニストのえのきどいちろうさん。今回のインタビューゲストはプロバスケットボール、横浜ビー・コルセアーズの山田謙治選手です。
山田 謙治(やまだ・けんじ)◯ガード。1983年7月28日生まれ。横浜市出身。姉の影響でミニバスケットボールを始める。名門能代工業高校でインターハイ2連覇、主将だった3年時にはウィンターカップとの2冠獲得。法政大学4年時は関東インカレ優勝、最優秀選手賞を受賞。大塚商会、栃木ブレックス/リンク栃木ブレックスを経て、横浜ビー・コルセアーズに球団設立初年度の2011年より加入。2年目の優勝に大きく貢献。今シーズンよりキャプテンを務める。
─横浜出身ですよね。バスケはいつ始めたんですか?
旭区の東希望が丘小学校で、3年生くらいからミニバスケットボールを始めました。
─山田さんってどんな子どもでした?
遊んでばっかりでしたね。学校終わって1、2時間外で遊んでからそのまま練習という毎日でした。
─体は大きかったんですか?
小学生の時は小さかったんです。小学校卒業の時は146cmしかなくて、中学校に入ってもバスケ部の女子に「小っちゃい」とか馬鹿にされていたくらいなんで。でも中学2年生の頃、急に伸び始めました。
─当時から今のように状況判断力などに優れた子どもだったんですか?
状況判断とドリブルやボールハンドリングといった基本は当時の練習で叩き込まれましたね。
─出来るようになるまで繰り返すタイプの子?
「この時間でこれをやろう」って決めたら、しっかり集中してやっていました。日々の反復練習の大切さを教えてもらっていたことは今も活きています。
─バスケを始めようっていう子が読んでいるとして、どんなことが大事だと思いますか?
横浜ビー・コルセアーズのスクールなどで子どもたちの指導に行く時は、基本練習の大切さを伝えています。それと、普段の生活がだらしないとプレーもだらしなくなってしまいますから、そういうところも伝えていますね。
─なるほど。
今の時代、どこまで言っていいのかがすごく難しいんですが、怒るところは怒って、後でしっかりフォローするっていうのが伝える側としても大事なことかなと僕は思っています。
─山田少年はハートの強い子どもでした?
子どもの時は弱かったですね。でも能代工業高校時代に気持ちの面を鍛えられました。
─気持ちとかハートの部分って鍛えられるもの?
顧問の先生が教えてくれることって、ホントに文武両道の大切さとかばかりなんです。勉強とか学校生活がおろそかだとそれがそのままプレーに出るって言われ続けたことは、今でも頭に残っています。それと、僕は中学を卒業してすぐに家族と離れて秋田に行ったので、早い時期に自立できていたと思っています。
─バスケットボールが本当に生活のすべてという感じだったんですね。
そうですね。でも、辞めたいと思ったこともありました。高校時代、ポジション的に自分が崩れるとチームの戦いが厳しくなるので、ちょっとしたミスでも常に怒られていた感じです。大勢の人が観ている全国大会の舞台でも「神奈川に帰れ」って、普通に言われるんで。大好きなバスケでこんな怒られ方をしなきゃいけないのかって気持ちに何度もなりました。
─それでも辞めないで続けた。
はい。それがあったから今の僕があると思います。
─僕ね、山田さんって少年時代に、世界が広がっていくような感じを味わってるんじゃないかなって想像していたんですよ。自分がやっていることが全国、世界につながっていく感覚、どんどん広がってそこにすごい選手がいるとか、そんなすごい感覚かなって。実際どんな感じでした?
小中学校時代に、県の大会で優勝して全国に行けたことは大きな経験でしたね。対等に戦える喜びと同時に「あぁもっと上がいるんだから、もっとやらなきゃいけない」っていう気持ちも芽生えました。そういう経験を子どもの時にできたことは大きかったです。高校の時は、勝って当たり前というチームにいたので、勝たなきゃいけないというプレッシャーを経験していました。
─いくつかのチームを経て、横浜ビー・コルセアーズ…ビーコルでやることになって、自分のホームタウン・横浜に戻ることになりました。間違いなく、山田さんを見ている地元の後輩とか下の世代の子たちが出てきます。それはすごい良いことですよね。
今、桐光学園バスケ部に、僕と同じミニバスケットボールチーム出身の選手がいるんですよ。「お前にすごい似たプレーをする子がいるぞ」ってコーチから聞いていたので何度か見に行ったことがあるんですけど、ホントに僕みたいなプレーをしていました。高校1年からスタメンで試合に出ていて、プレーとか読みはピカイチなんで、これからの成長に期待しています。いずれビーコルに入ってもらって一緒にやれたらいいですね。
─そういうのって、ずっとキャリアを重ねている良さですね。山田さんのキャリアを見ていくと、小学校からプロまですべてのカテゴリーで栄光の中心にいます。
僕はどのカテゴリーでもチームメイトや周りの人に恵まれて、助けられてきました。こういう経験をしている人って、そんなにたくさんはいないですよね。
─スポーツってどうしても良い時悪い時があります。その悪い時に、真ん中張ってる選手が踏ん張ってくれているのって、僕はかなりグっときます。山田さんはそんな感じの選手だなと感じながら試合を見ていました。チームは今、厳しい状況が続いていますが、みんな山田さんを信じてますから、頑張ってください。
ありがとうございます、頑張ります。
取材を終えて
えのきどいちろう
山田さんは自分の言葉を持ってる人だなぁという印象です。言葉を持ってるアスリートは基本的に自分で考えて、プレーイメージをストックしてきた人です。当然、キャリア豊富な選手に多いけれど、僕の勘を言うと山田さんの場合、若い時期からこういう感じじゃなかったかなと思いますね。
それからプレーイメージをストックするだけじゃなく、他人に伝達する習慣を持っている人に多いですね。つまり、リーダーシップを持ってる選手。これもね、キャリアと関係ない面があるんですよ。ある程度、生まれ持ったものというところがある。
ゲーム中の山田さんを見ているとチームの心臓という感じがしますね。常に全体を考えてる。瞬間瞬間の局面だけじゃなく、ゲームの流れまで考えてる。ファンはそのイメージを想像しながら見るといいですね。あとで的確にコメントしてもらえて、答え合わせができる気がします。
横浜ビー・コルセアーズ 山田 謙治選手
あなたが子どもの頃に抱き続けた夢は? トップアスリートが子どもの頃に見ていた夢、そして夢を持つことの大切さを語る「夢を信じて」。インタビュアーはコラムニストのえのきどいちろうさん。今回のインタビューゲストはプロバスケットボール、横浜ビー・コルセアーズの山田謙治選手です。
山田 謙治(やまだ・けんじ)◯ガード。1983年7月28日生まれ。横浜市出身。姉の影響でミニバスケットボールを始める。名門能代工業高校でインターハイ2連覇、主将だった3年時にはウィンターカップとの2冠獲得。法政大学4年時は関東インカレ優勝、最優秀選手賞を受賞。大塚商会、栃木ブレックス/リンク栃木ブレックスを経て、横浜ビー・コルセアーズに球団設立初年度の2011年より加入。2年目の優勝に大きく貢献。今シーズンよりキャプテンを務める。
─横浜出身ですよね。バスケはいつ始めたんですか?
旭区の東希望が丘小学校で、3年生くらいからミニバスケットボールを始めました。
─山田さんってどんな子どもでした?
遊んでばっかりでしたね。学校終わって1、2時間外で遊んでからそのまま練習という毎日でした。
─体は大きかったんですか?
小学生の時は小さかったんです。小学校卒業の時は146cmしかなくて、中学校に入ってもバスケ部の女子に「小っちゃい」とか馬鹿にされていたくらいなんで。でも中学2年生の頃、急に伸び始めました。
─当時から今のように状況判断力などに優れた子どもだったんですか?
状況判断とドリブルやボールハンドリングといった基本は当時の練習で叩き込まれましたね。
─出来るようになるまで繰り返すタイプの子?
「この時間でこれをやろう」って決めたら、しっかり集中してやっていました。日々の反復練習の大切さを教えてもらっていたことは今も活きています。
─バスケを始めようっていう子が読んでいるとして、どんなことが大事だと思いますか?
横浜ビー・コルセアーズのスクールなどで子どもたちの指導に行く時は、基本練習の大切さを伝えています。それと、普段の生活がだらしないとプレーもだらしなくなってしまいますから、そういうところも伝えていますね。
─なるほど。
今の時代、どこまで言っていいのかがすごく難しいんですが、怒るところは怒って、後でしっかりフォローするっていうのが伝える側としても大事なことかなと僕は思っています。
─山田少年はハートの強い子どもでした?
子どもの時は弱かったですね。でも能代工業高校時代に気持ちの面を鍛えられました。
─気持ちとかハートの部分って鍛えられるもの?
顧問の先生が教えてくれることって、ホントに文武両道の大切さとかばかりなんです。勉強とか学校生活がおろそかだとそれがそのままプレーに出るって言われ続けたことは、今でも頭に残っています。それと、僕は中学を卒業してすぐに家族と離れて秋田に行ったので、早い時期に自立できていたと思っています。
─バスケットボールが本当に生活のすべてという感じだったんですね。
そうですね。でも、辞めたいと思ったこともありました。高校時代、ポジション的に自分が崩れるとチームの戦いが厳しくなるので、ちょっとしたミスでも常に怒られていた感じです。大勢の人が観ている全国大会の舞台でも「神奈川に帰れ」って、普通に言われるんで。大好きなバスケでこんな怒られ方をしなきゃいけないのかって気持ちに何度もなりました。
─それでも辞めないで続けた。
はい。それがあったから今の僕があると思います。
─僕ね、山田さんって少年時代に、世界が広がっていくような感じを味わってるんじゃないかなって想像していたんですよ。自分がやっていることが全国、世界につながっていく感覚、どんどん広がってそこにすごい選手がいるとか、そんなすごい感覚かなって。実際どんな感じでした?
小中学校時代に、県の大会で優勝して全国に行けたことは大きな経験でしたね。対等に戦える喜びと同時に「あぁもっと上がいるんだから、もっとやらなきゃいけない」っていう気持ちも芽生えました。そういう経験を子どもの時にできたことは大きかったです。高校の時は、勝って当たり前というチームにいたので、勝たなきゃいけないというプレッシャーを経験していました。
─いくつかのチームを経て、横浜ビー・コルセアーズ…ビーコルでやることになって、自分のホームタウン・横浜に戻ることになりました。間違いなく、山田さんを見ている地元の後輩とか下の世代の子たちが出てきます。それはすごい良いことですよね。
今、桐光学園バスケ部に、僕と同じミニバスケットボールチーム出身の選手がいるんですよ。「お前にすごい似たプレーをする子がいるぞ」ってコーチから聞いていたので何度か見に行ったことがあるんですけど、ホントに僕みたいなプレーをしていました。高校1年からスタメンで試合に出ていて、プレーとか読みはピカイチなんで、これからの成長に期待しています。いずれビーコルに入ってもらって一緒にやれたらいいですね。
─そういうのって、ずっとキャリアを重ねている良さですね。山田さんのキャリアを見ていくと、小学校からプロまですべてのカテゴリーで栄光の中心にいます。
僕はどのカテゴリーでもチームメイトや周りの人に恵まれて、助けられてきました。こういう経験をしている人って、そんなにたくさんはいないですよね。
─スポーツってどうしても良い時悪い時があります。その悪い時に、真ん中張ってる選手が踏ん張ってくれているのって、僕はかなりグっときます。山田さんはそんな感じの選手だなと感じながら試合を見ていました。チームは今、厳しい状況が続いていますが、みんな山田さんを信じてますから、頑張ってください。
ありがとうございます、頑張ります。
取材を終えて
えのきどいちろう
山田さんは自分の言葉を持ってる人だなぁという印象です。言葉を持ってるアスリートは基本的に自分で考えて、プレーイメージをストックしてきた人です。当然、キャリア豊富な選手に多いけれど、僕の勘を言うと山田さんの場合、若い時期からこういう感じじゃなかったかなと思いますね。
それからプレーイメージをストックするだけじゃなく、他人に伝達する習慣を持っている人に多いですね。つまり、リーダーシップを持ってる選手。これもね、キャリアと関係ない面があるんですよ。ある程度、生まれ持ったものというところがある。
ゲーム中の山田さんを見ているとチームの心臓という感じがしますね。常に全体を考えてる。瞬間瞬間の局面だけじゃなく、ゲームの流れまで考えてる。ファンはそのイメージを想像しながら見るといいですね。あとで的確にコメントしてもらえて、答え合わせができる気がします。