SPORTSよこはまVol.46:夢を信じて
横浜FC 松下 年宏選手
あなたが子どもの頃に抱き続けた夢は? トップアスリートが子どもの頃に見ていた夢、そして夢を持つことの大切さを語る「夢を信じて」。 インタビュアーはコラムニストのえのきどいちろうさん。
今回のインタビューゲストは横浜FCの松下年宏選手です。
松下 年宏(まつしたとしひろ)◯ミッドフィルダー。鹿児島県出身。兄の影響で幼稚園の頃からサッカーを始める。鹿児島実業高等学校卒業後の2002年、ガンバ大阪に加入。その後、アルビレックス新潟、FC東京、ベガルタ仙台を経て、2014シーズンより横浜FCに。持ち前の運動量を活かし、攻守に活躍を見せるオールラウンダー。8月度Jリーグ月間MVPを獲得。9月には第1子となる長男が誕生と公私ともに充実したシーズンを送る。
─ゴールデンエイジって言葉があるでしょ?子どもの頃こそ技術の習得が大切な年代だっていうことなんですが、もう一方で、特にその競技だけっていうことじゃなく、いろんなことをした方がいいんだっていう話もあります。松下選手はどう思います?
僕の話で申し訳ないんですけど(笑)。たとえば夏休みといえば、朝5時くらいに起きて虫取り。で、ラジオ体操出て、あとはもうずっとサッカーをしてる…そんな毎日でした。その頃が今にどんなふうにつながっているかはわかりませんが、とにかく外で遊ぶことは大切だと思いますね。
─松下選手って、技術あって、スタミナあって、守備できてっていう万能のイメージですが、少年時代はどんな選手でした?
小、中学生の頃はフォワードで選抜にも入ってましたけど、高校生になったら周りはみんなうまいし、体はできているし。体も細い僕は、抜き出たような選手ではなかったですね。
─その頃、将来プロでやるってイメージは?
プロになりたいって気持ちはありましたけれど、現実には高校1、2年生の時って試合にも出られてなかったんで、なれるのかな? って思ってましたね。
─補欠の子とか、試合に出られない子とか、自信がない子とか、この話を読む中にもたくさんいると思うんですよ。僕は傷ついたり、失敗したりすることを怖がらずに、たとえへこんでもまた次の日に明るく元気出して出てくるような子のほうがやっぱり伸びてくると思うんです。今、試合に出られない子たちへ向けてのアドバイスはありませんか?
自分を知ることですね。自分には何が足りないのか、何で試合に出られないのか、そういうことを考えることが大切かな、僕もそうでしたから。
─当時は何が足りないと思ってました?
高校生の時でも右足でしか蹴れなかったんですよ。左右蹴れるようになろうと思って、ひたすら壁に向かって練習してましたね。それと、より確実なプレーができる選手になろうって思って、トラップやパス、基本の基本をそれこそ何時間もずっと練習してましたね。
─気持ちが折れたりは?
なかったですね。鹿実のBチームで、一緒にプレーしながら周りの選手に「下手くそ」とか言われるのが悔しくて。卒業するときには自分がプロに入って見返してやろうという気持ちがあったんですね。
─鹿実のBチームから始まった松下選手が、卒業後ガンバ大阪に。またハードルが…
上がりましたね。なにしろ特徴のある選手が多くて。そういう人たちが集まる世界なんだなって感じましたね。ドリブルがすごいとか、足がすごく速いとか、シュートがすごいとか、「すごい」がつくんですよ。そういう人たちばっかりでした。
─選手層厚いし、ユースからの選手もすごい。よく考えたら無理だってなるじゃないですか。で、お利口さんは辞めちゃう。やらない理由探しちゃうから。
んー、ガンバの頃は苦しかったですね。もがいていました。一番へこんだのは、スタメンで出て前半24分で変えられた時ですね。1-0で勝ってたのに。すごく覚えてます。
─それは何で?
わかんないです。流れがたぶんよくなかった…そういうことにしようと今は思ってるんですけど。
─そうですか…。
考えましたね、何通りも。
─若造はミスや失敗をするじゃないですか、経験ないわけだから。でもそんなにチャンスもないんだよね、プロって。なかなか出場機会自体がないから。
そうですね。それでも、練習試合や練習でアピールするしかないんですよね。
─その後、新潟へ。
その前半で代えられた試合の後、新潟から話いただいて。今のままだとよくないと思って、環境を変えようと決断しました。試合に飢えてましたから。
─新潟で試合出られるようになりました。
試合に出られるとその中でチャレンジできるようになる、次があるから。自信がついて、今までの事が間違ってなかったんだって思えるようになって、また続けていこうって。分岐点ですね。
─僕は当時見ていて、溜めてたものがぶわっと出てるのを感じてましたよ。ギラギラしてた。その後FC東京、仙台。そして今年横浜FCに。
本当にいいチームです、横浜FC。僕のこれまでの経験を聞いてくれたり、目標に向かって戦うという実感も、うれしかったですね。30歳を過ぎてサッカーが楽しくなってきてるんですよ。この年齢になって自分がやらなきゃっていうのが強くなりました。ここでもっと上のステージに行きたいですね。
─横浜FCでチームの物語と松下選手の物語がバンとうまく合わさると素晴らしいですよね、一番良いですよね。
言葉だけじゃなくて、プレーで伝えられるような選手になれたらなと思ってるんで、そういう姿を見せられるようにしたいなと思ってます。
─松下選手は、自分ではなんでずっとプロで続けられたと思ってますか?
すごいドリブルもっているわけでもないし、すごいシュート決めるわけではないし…。
─ずっと「何でもできる人」って言うくらいに見えてたんですよ。でも、「自分の生きる道」を見つけてきた人なんだなあって思いました。これはこの話を読んだ子どもたちにとって力になるんじゃないかな。
そうだとうれしいですね。
取材を終えて
えのきどいちろう
「僕の話で申し訳ないんですけど」で始まるインタビューですよ。衝撃的です。どれだけ謙虚で、人がいいのかってことですね。関係者やサッカー記者仲間に聞いても松下さんはめっちゃ人望がある。好かれている。それはね、サッカー少年がそのまま大きくなったような純な人柄によるところだと思います。ただし、ピッチの上では熱いですよ。今季、「8月の月間MVP」に輝いたのはダテじゃない。三ツ沢でぜひ彼のプレーを見てください。
横浜FC 松下 年宏選手
あなたが子どもの頃に抱き続けた夢は? トップアスリートが子どもの頃に見ていた夢、そして夢を持つことの大切さを語る「夢を信じて」。 インタビュアーはコラムニストのえのきどいちろうさん。
今回のインタビューゲストは横浜FCの松下年宏選手です。
松下 年宏(まつしたとしひろ)◯ミッドフィルダー。鹿児島県出身。兄の影響で幼稚園の頃からサッカーを始める。鹿児島実業高等学校卒業後の2002年、ガンバ大阪に加入。その後、アルビレックス新潟、FC東京、ベガルタ仙台を経て、2014シーズンより横浜FCに。持ち前の運動量を活かし、攻守に活躍を見せるオールラウンダー。8月度Jリーグ月間MVPを獲得。9月には第1子となる長男が誕生と公私ともに充実したシーズンを送る。
─ゴールデンエイジって言葉があるでしょ?子どもの頃こそ技術の習得が大切な年代だっていうことなんですが、もう一方で、特にその競技だけっていうことじゃなく、いろんなことをした方がいいんだっていう話もあります。松下選手はどう思います?
僕の話で申し訳ないんですけど(笑)。たとえば夏休みといえば、朝5時くらいに起きて虫取り。で、ラジオ体操出て、あとはもうずっとサッカーをしてる…そんな毎日でした。その頃が今にどんなふうにつながっているかはわかりませんが、とにかく外で遊ぶことは大切だと思いますね。
─松下選手って、技術あって、スタミナあって、守備できてっていう万能のイメージですが、少年時代はどんな選手でした?
小、中学生の頃はフォワードで選抜にも入ってましたけど、高校生になったら周りはみんなうまいし、体はできているし。体も細い僕は、抜き出たような選手ではなかったですね。
─その頃、将来プロでやるってイメージは?
プロになりたいって気持ちはありましたけれど、現実には高校1、2年生の時って試合にも出られてなかったんで、なれるのかな? って思ってましたね。
─補欠の子とか、試合に出られない子とか、自信がない子とか、この話を読む中にもたくさんいると思うんですよ。僕は傷ついたり、失敗したりすることを怖がらずに、たとえへこんでもまた次の日に明るく元気出して出てくるような子のほうがやっぱり伸びてくると思うんです。今、試合に出られない子たちへ向けてのアドバイスはありませんか?
自分を知ることですね。自分には何が足りないのか、何で試合に出られないのか、そういうことを考えることが大切かな、僕もそうでしたから。
─当時は何が足りないと思ってました?
高校生の時でも右足でしか蹴れなかったんですよ。左右蹴れるようになろうと思って、ひたすら壁に向かって練習してましたね。それと、より確実なプレーができる選手になろうって思って、トラップやパス、基本の基本をそれこそ何時間もずっと練習してましたね。
─気持ちが折れたりは?
なかったですね。鹿実のBチームで、一緒にプレーしながら周りの選手に「下手くそ」とか言われるのが悔しくて。卒業するときには自分がプロに入って見返してやろうという気持ちがあったんですね。
─鹿実のBチームから始まった松下選手が、卒業後ガンバ大阪に。またハードルが…
上がりましたね。なにしろ特徴のある選手が多くて。そういう人たちが集まる世界なんだなって感じましたね。ドリブルがすごいとか、足がすごく速いとか、シュートがすごいとか、「すごい」がつくんですよ。そういう人たちばっかりでした。
─選手層厚いし、ユースからの選手もすごい。よく考えたら無理だってなるじゃないですか。で、お利口さんは辞めちゃう。やらない理由探しちゃうから。
んー、ガンバの頃は苦しかったですね。もがいていました。一番へこんだのは、スタメンで出て前半24分で変えられた時ですね。1-0で勝ってたのに。すごく覚えてます。
─それは何で?
わかんないです。流れがたぶんよくなかった…そういうことにしようと今は思ってるんですけど。
─そうですか…。
考えましたね、何通りも。
─若造はミスや失敗をするじゃないですか、経験ないわけだから。でもそんなにチャンスもないんだよね、プロって。なかなか出場機会自体がないから。
そうですね。それでも、練習試合や練習でアピールするしかないんですよね。
─その後、新潟へ。
その前半で代えられた試合の後、新潟から話いただいて。今のままだとよくないと思って、環境を変えようと決断しました。試合に飢えてましたから。
─新潟で試合出られるようになりました。
試合に出られるとその中でチャレンジできるようになる、次があるから。自信がついて、今までの事が間違ってなかったんだって思えるようになって、また続けていこうって。分岐点ですね。
─僕は当時見ていて、溜めてたものがぶわっと出てるのを感じてましたよ。ギラギラしてた。その後FC東京、仙台。そして今年横浜FCに。
本当にいいチームです、横浜FC。僕のこれまでの経験を聞いてくれたり、目標に向かって戦うという実感も、うれしかったですね。30歳を過ぎてサッカーが楽しくなってきてるんですよ。この年齢になって自分がやらなきゃっていうのが強くなりました。ここでもっと上のステージに行きたいですね。
─横浜FCでチームの物語と松下選手の物語がバンとうまく合わさると素晴らしいですよね、一番良いですよね。
言葉だけじゃなくて、プレーで伝えられるような選手になれたらなと思ってるんで、そういう姿を見せられるようにしたいなと思ってます。
─松下選手は、自分ではなんでずっとプロで続けられたと思ってますか?
すごいドリブルもっているわけでもないし、すごいシュート決めるわけではないし…。
─ずっと「何でもできる人」って言うくらいに見えてたんですよ。でも、「自分の生きる道」を見つけてきた人なんだなあって思いました。これはこの話を読んだ子どもたちにとって力になるんじゃないかな。
そうだとうれしいですね。
取材を終えて
えのきどいちろう
「僕の話で申し訳ないんですけど」で始まるインタビューですよ。衝撃的です。どれだけ謙虚で、人がいいのかってことですね。関係者やサッカー記者仲間に聞いても松下さんはめっちゃ人望がある。好かれている。それはね、サッカー少年がそのまま大きくなったような純な人柄によるところだと思います。ただし、ピッチの上では熱いですよ。今季、「8月の月間MVP」に輝いたのはダテじゃない。三ツ沢でぜひ彼のプレーを見てください。