SPORTSよこはまVol.45:夢を信じて
横浜F・マリノス 榎本 哲也選手
あなたが子どもの頃に抱き続けた夢は? トップアスリートが子どもの頃に見ていた夢、そして夢を持つことの大切さを語る「夢を信じて」。
インタビュアーはコラムニストのえのきどいちろうさん。
今回のインタビューゲストは横浜F・マリノスの榎本哲也選手です。
榎本 哲也(えのもとてつや)◯ゴールキーパー。神奈川県出身。小学校3年生で、横浜マリノスプライマリー新子安に加入以来、ジュニアユース、ユースを経て、2002年トップチームに昇格とトリコロール一筋。2003年のJ1ファーストステージ開幕戦のジュビロ戦でデビュー。ポジション争いなどを経験し精神的にもタフになり、2012年9月、約1000日ぶりにリーグ戦に出場する。安定感あふれるプレーでゴールを守る守護神。
─いつ頃キーパーに?
キーパーって人気がなくて、自分もプライマリーの時に人がいなくて、「やりたいやつ」って言われて手をあげたのがきっかけです。小学校3年生の時でしたね。その頃は身長も大きい方でしたから、やってみようかなっていう感じで。シュートを止めて、みんなが「いいじゃん」みたいな感じになってくると、やっぱりうれしくなって。そこからですかね。でも、親からはすごい反対されました。
─ケガが多いとか?
いや、あの…。キーパーってその当時は太っているというか、そういう子がやるっていうイメージがあったからでしょうね。
─野球でいう昔のキャッチャーのイメージ?
下手だからキーパーなんだという思い込みが親にはあったみたいで。親父に「キーパーばっかりやってんじゃねぇ」って言われて(笑)。僕は何でダメなのかその時はよく分からなかったんですけど。
─キーパーに向いてる子だったのかな?
怖いもの知らずなところはありましたね。
─子どもの頃のヒーローっていました?
今のキーパーコーチの松永成立さんです。
─おお、それはスゲー。
キーパーはユニフォームも違うし、松永さんはキャプテンだったんです。それがカッコ良くて。その後の川口能活さんにしても、マリノスには日本で一番のキーパーが揃っていますから。ずっと試合を録画してマリノスのキーパーのプレーばっかり見てましたね。
─真似したりするんですか?
真似をすることが一番簡単かなと思って。その頃はまだ自分で考える力がなかったので、近づきたいとなるとやっぱり真似しようと思って。跳び方とか、キャッチの仕方とか。家の畳の上でそういう事ばっかりしてました。
─いいなぁ、そういうの。もしかすると、これは川口能活さんを真似したときの感じかなとか、今でも体に残ってる感じ?
残ってますね。いまだにそれは出てきます、その時のシーンを真似て体がそうやって動くっていうのは。31歳になった今でも覚えています。
─ホントですか?
はい。これはあの時のシーンに似てる、こういう跳び方してたとか。
─空想したり真似したりするのって、子どもにとってはすごく大事ですね、一生モノですね。
好きな人のプレーを見るって、一番技術の向上になると思うし、考える力にもなると思うんです。僕はいつも子どもたちに「好きな選手のプレーをいっぱい見てください」って言うんですよ。
─子どもの頃から同じ競技をずっとやってる子がよく突き当たるのは、他の子たちが大きくなって、大きかった子がそんなに大きくなくなるとか、そういうのありましたか?
中学になると他のチームからも選手が入ってくるんです。そうしたら僕が一番小さかったんですよ。親も心配して、すごい量を食べさせられました。それに牛乳も3リットルを毎日(笑)、もう古い考えを全部詰めこむように。おかげで今は牛乳嫌いです(笑)。
─カルシウムとかは? 小魚とか…。
間食するならアーモンドと小魚のあるじゃないですか、おつまみみたいなの。あれを食べさせられて。うち酒屋だったんで、そういうのがいっぱいあったんですよ。
─その甲斐あって、大きくなったんですね。
今の時代で180cmってそんなに大きくないですけれどね。でも、小さくても補えるものってたくさんサッカーにはあって。
そこを補っていくことしか190㎝の人に自分が勝つ方法はないって思っています。
─時々思い出す、あの時、あの試合とかありますか。
自分にとって分岐点は中学2年生の時の高円宮杯の関東地区予選準決勝のジェフとの試合でした。中3のキーパーが退場しちゃって、控えの僕が入ったんです。その時、もう何回決定機があったのかっていうのを止め続けて。あの試合から自分のプロへの道が開けたような感覚がありますね。
─成長していく中でマリノスという環境がもたらしてくれたものって、名門だからこそあると思います。たとえば中村俊輔選手のフリーキックの練習に付き合えたとか。
俊さんとは僕が高校生の時にトップの練習に参加するようになった時からですね。僕がグラウンドまで歩いていくのにちょうど会うんですよ、俊さんが後ろから車で来て、乗っけてもらって、仲良くしてもらえるようになって。で、全体練習終わったらフリーキック受けるんですけど、全く取れないんですよ。「悔しいなあ」と思いながらも、これが世界レベルの人なんだなって感じました。その感覚を高校生で受けられたのは大きかったですよね。
─軌道や向かい合った時の感覚みたいなものを高校時代に体感したって、ものすごい財産ですよね。
いつか一緒に公式戦でプレーしてみたいっていうのがずっとあって、でも俊さんは僕が入団した年の夏に海外に移籍したので、自分が日本代表にならないと一緒にプレーできないなと思ってました。でも今、一緒にマリノスでプレーできてるんで、夢が叶いましたね。
取材を終えて
えのきどいちろう
榎本哲也選手に「思い出の試合」について伺ったんですよ。てっきりプロになってからの大一番、まぁ鹿島戦とかガンバ大阪戦とか、そういうのが出てくると思ったら、びっくりしますね、中2のときの試合でした。 だからJリーグのひのき舞台にいる榎本さんは、初心を忘れないんだなぁ。自分がチャンスをつかみとった最初の最初、その感激を今もフリーズドライして、心に持っている。素晴らしいことだと思いましたよ。
横浜F・マリノス 榎本 哲也選手
あなたが子どもの頃に抱き続けた夢は? トップアスリートが子どもの頃に見ていた夢、そして夢を持つことの大切さを語る「夢を信じて」。
インタビュアーはコラムニストのえのきどいちろうさん。
今回のインタビューゲストは横浜F・マリノスの榎本哲也選手です。
榎本 哲也(えのもとてつや)◯ゴールキーパー。神奈川県出身。小学校3年生で、横浜マリノスプライマリー新子安に加入以来、ジュニアユース、ユースを経て、2002年トップチームに昇格とトリコロール一筋。2003年のJ1ファーストステージ開幕戦のジュビロ戦でデビュー。ポジション争いなどを経験し精神的にもタフになり、2012年9月、約1000日ぶりにリーグ戦に出場する。安定感あふれるプレーでゴールを守る守護神。
─いつ頃キーパーに?
キーパーって人気がなくて、自分もプライマリーの時に人がいなくて、「やりたいやつ」って言われて手をあげたのがきっかけです。小学校3年生の時でしたね。その頃は身長も大きい方でしたから、やってみようかなっていう感じで。シュートを止めて、みんなが「いいじゃん」みたいな感じになってくると、やっぱりうれしくなって。そこからですかね。でも、親からはすごい反対されました。
─ケガが多いとか?
いや、あの…。キーパーってその当時は太っているというか、そういう子がやるっていうイメージがあったからでしょうね。
─野球でいう昔のキャッチャーのイメージ?
下手だからキーパーなんだという思い込みが親にはあったみたいで。親父に「キーパーばっかりやってんじゃねぇ」って言われて(笑)。僕は何でダメなのかその時はよく分からなかったんですけど。
─キーパーに向いてる子だったのかな?
怖いもの知らずなところはありましたね。
─子どもの頃のヒーローっていました?
今のキーパーコーチの松永成立さんです。
─おお、それはスゲー。
キーパーはユニフォームも違うし、松永さんはキャプテンだったんです。それがカッコ良くて。その後の川口能活さんにしても、マリノスには日本で一番のキーパーが揃っていますから。ずっと試合を録画してマリノスのキーパーのプレーばっかり見てましたね。
─真似したりするんですか?
真似をすることが一番簡単かなと思って。その頃はまだ自分で考える力がなかったので、近づきたいとなるとやっぱり真似しようと思って。跳び方とか、キャッチの仕方とか。家の畳の上でそういう事ばっかりしてました。
─いいなぁ、そういうの。もしかすると、これは川口能活さんを真似したときの感じかなとか、今でも体に残ってる感じ?
残ってますね。いまだにそれは出てきます、その時のシーンを真似て体がそうやって動くっていうのは。31歳になった今でも覚えています。
─ホントですか?
はい。これはあの時のシーンに似てる、こういう跳び方してたとか。
─空想したり真似したりするのって、子どもにとってはすごく大事ですね、一生モノですね。
好きな人のプレーを見るって、一番技術の向上になると思うし、考える力にもなると思うんです。僕はいつも子どもたちに「好きな選手のプレーをいっぱい見てください」って言うんですよ。
─子どもの頃から同じ競技をずっとやってる子がよく突き当たるのは、他の子たちが大きくなって、大きかった子がそんなに大きくなくなるとか、そういうのありましたか?
中学になると他のチームからも選手が入ってくるんです。そうしたら僕が一番小さかったんですよ。親も心配して、すごい量を食べさせられました。それに牛乳も3リットルを毎日(笑)、もう古い考えを全部詰めこむように。おかげで今は牛乳嫌いです(笑)。
─カルシウムとかは? 小魚とか…。
間食するならアーモンドと小魚のあるじゃないですか、おつまみみたいなの。あれを食べさせられて。うち酒屋だったんで、そういうのがいっぱいあったんですよ。
─その甲斐あって、大きくなったんですね。
今の時代で180cmってそんなに大きくないですけれどね。でも、小さくても補えるものってたくさんサッカーにはあって。
そこを補っていくことしか190㎝の人に自分が勝つ方法はないって思っています。
─時々思い出す、あの時、あの試合とかありますか。
自分にとって分岐点は中学2年生の時の高円宮杯の関東地区予選準決勝のジェフとの試合でした。中3のキーパーが退場しちゃって、控えの僕が入ったんです。その時、もう何回決定機があったのかっていうのを止め続けて。あの試合から自分のプロへの道が開けたような感覚がありますね。
─成長していく中でマリノスという環境がもたらしてくれたものって、名門だからこそあると思います。たとえば中村俊輔選手のフリーキックの練習に付き合えたとか。
俊さんとは僕が高校生の時にトップの練習に参加するようになった時からですね。僕がグラウンドまで歩いていくのにちょうど会うんですよ、俊さんが後ろから車で来て、乗っけてもらって、仲良くしてもらえるようになって。で、全体練習終わったらフリーキック受けるんですけど、全く取れないんですよ。「悔しいなあ」と思いながらも、これが世界レベルの人なんだなって感じました。その感覚を高校生で受けられたのは大きかったですよね。
─軌道や向かい合った時の感覚みたいなものを高校時代に体感したって、ものすごい財産ですよね。
いつか一緒に公式戦でプレーしてみたいっていうのがずっとあって、でも俊さんは僕が入団した年の夏に海外に移籍したので、自分が日本代表にならないと一緒にプレーできないなと思ってました。でも今、一緒にマリノスでプレーできてるんで、夢が叶いましたね。
取材を終えて
えのきどいちろう
榎本哲也選手に「思い出の試合」について伺ったんですよ。てっきりプロになってからの大一番、まぁ鹿島戦とかガンバ大阪戦とか、そういうのが出てくると思ったら、びっくりしますね、中2のときの試合でした。 だからJリーグのひのき舞台にいる榎本さんは、初心を忘れないんだなぁ。自分がチャンスをつかみとった最初の最初、その感激を今もフリーズドライして、心に持っている。素晴らしいことだと思いましたよ。