ありがとう、松田直樹選手
by :ハマスポどっとコム
日本フットボールリーグ(JFL)・松本山雅FC所属の松田直樹選手(34)が、8月4日13時06分、逝去されました。松田選手は1995年に前橋育英高校(群馬県)から横浜マリノス(当時)に加入し、ルーキーイヤーながらチームをJリーグチャンピオンに導きました。以降、横浜F・マリノスの中心選手として3度のJリーグチャンピオン、1度のJリーグ・ヤマザキナビスコカップ優勝に貢献されました。また各世代の日本代表として、アトランタ・シドニー両オリンピック、2002 FIFAワールドカップ等にも出場し、ディフェンスの要として活躍されました。
昨年末、16年間在籍した横浜F・マリノスとの契約が満了し、JFL・松本山雅FCへ移籍。クラブを悲願のJリーグ昇格へ導くために活躍されていた中での悲報となりました。
生前の日本サッカー界及び横浜のスポーツに多大なる貢献をされた松田直樹選手へ深く感謝を申し上げます。
謹んでご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆さまに心からお悔やみを申し上げます。
松田直樹選手メモリアル(ハマスポどっとコム取材写真より、画像をクリックすると大きな写真がご覧いただけます)
1枚目・2枚目:日産スタジアムpresents 横浜F・マリノス選手会サッカー教室(2009/06/18 UP)
3枚目・4枚目・5枚目:2010 横浜F・マリノストリコロールフェスタ(2010/01/30 UP)
6枚目:ワールドカップパブリックビューイング 日本×カメルーン(2010/06/15 UP)
松田直樹選手へ想いを寄せて 1 (YOSHIYAMA)
初めて松田直樹選手を取材させていただいたのは、1999年11月28日。ファン交流イベントの合間でした。
(S・PORTよこはま 2000年2月号 PDF)
熱く激しいプレー。試合中、時には大先輩井原選手にも大きなジェスチャーで感情をぶつける…そんな松田選手もユニフォームを脱ぐと笑顔の絶えない、ファンを愛するやさしい心の持ち主でした。
その後、2000年5月18日には、シドニーオリンピックを前に、単独インタビューをさせていただきました。
(S・PORTよこはま 2000年8月号 PDF)
当時の松田選手は、真っ直ぐすぎる性格で、当時のトルシエ・オリンピック代表監督と衝突をして代表候補練習から帰ってきてしまった頃でした。そんな松田選手に対して、すごい勢いで代表選手であることの重要性・誇りを語る城彰二選手に圧倒されてしまったという話。その後は、トルシエは何度もぶつかるけど、代表でやっていくためにとにかくトルシエを負かすくらいにやってやる、と言っていた松田選手は、2002年ワールドカップ日韓大会では、ディフェンスの中心選手としてベスト16入りに貢献しました。
1995年の優勝、2000年ファーストステージの大逆転優勝(S・PORT 2001年2月号 PDF)、そのたびに涙を流していた松田選手。感情を素直に表に出せる素敵な人間でした。
松田直樹選手へ想いを寄せて 2 (sekki)
栄光の「背番号3」が、突然この世を去った。
2002年6月9日、FIFAワールドカップで日本代表が初めて勝利をした。日本代表に心からの声援を送る一方で、松田直樹選手が、横浜F・マリノスと同じ背番号3を背負い、日本代表選手としてプレーしたことに、心をときめかせていた方もいるだろう。普段は横浜F・マリノスのホームである横浜国際総合競技場で、日本代表としてFIFAワールドカップを戦った。これは今も色褪せることのない栄誉な出来事である。そして同じ栄誉を得ていたであろう選手たちの分まで一生懸命プレーしていた姿を、決して忘れることはないだろう。
慣れ親しむホームスタジアムでFIFAワールドカップを戦えるサッカー選手が世界中でどれだけいるだろうかと考えたとき、代表選手になるだけでは成し得ない巡り合わせであったことも、松田直樹という選手がこの横浜の街にとってもまた特別な存在である所以、そのひとつだと今でも信じている。
幾度となくカードを受けた。退場処分を受けピッチから出る際、キャプテンマークを投げ捨てたこともあった。それでも印象的なプレースタイルと真っ直ぐな性格の持ち主は、横浜F・マリノス、松本山雅FCをはじめ多くのサポーターから愛され、チームに欠かせない選手となった。
そんな松田直樹選手のサッカー人生は、まだハーフタイムにもたどり着いていない。
松本山雅FCと横浜F・マリノスでは、松田直樹選手への献花をお受けしています。詳細は下記のリンク、または各クラブ公式サイトをご確認ください。