2009春・慶應ナインのセンバツ【2】 引き継がれる背番号1(前編)
by :千葉 陽子
第81回選抜高校野球大会(3月21日から12日間。甲子園)に神奈川から出場する慶應高校野球部。来る日は着々と迫っている。今回は常に重責を負うエースの存在に焦点を当てた。
慶應高校野球部エース・白村明弘投手
甲子園は自分を待っていた
それは半年前にさかのぼる。「甲子園は自分のことを嫌いなのではないか。自分は甲子園で投げることができない運命なのではないか」。慶應の白村明弘投手(2年)は、そんな思いにとらわれていた。
昨年慶應は春夏連続甲子園出場を果たした。チームを牽引していたエース田村圭投手(3年)、只野尚彦投手(3年)。憧れのマウンドに登る先輩ピッチャーの背中をベンチで見つめていた白村投手に、遂に甲子園で登板の機会は巡ってこなかった。
そして秋、新チームが始動。白村投手は田村投手からエースの証「背番号1」を引き継ぐ。秋季県大会、関東大会、そして明治神宮大会を通じて公式戦10試合の登板で自責点4、防御率は0.59。「野球でも私生活でも相談に乗ってもらった大きな存在」である田村投手に負けないエースに成長した。「秋に日本一になったことで(明治神宮大会優勝)、甲子園は自分を待っているんじゃないか。最近そう思えるようになってきたんです」。そう微笑む瞳の奥には確かな自信が宿る。
明治神宮大会で日本一に輝いて。エースの風格が漂う
「野球バカ」と言われたくない
白村投手が野球と出会ったのは、産まれて間もなくのこと。生後3カ月にはバットを握っていたというが、それには父親が岐阜県美濃加茂高校野球部の部長(現・監督)を務めていたことが大きく影響している。「親父の姿を見て、かっこいいなあと思っていました。3歳くらいから一緒にバットを持って野球をやってましたね」。
小学生時代は地元の軟式野球チーム、中学では岐阜ビクトリーズで野球に打ち込む。慶應に進学を決意したのは理由がある。「慶應が選抜に出場した試合を見た時(2005年第77回大会・ベスト8の成績)、他のチームと雰囲気が違うと思った。明るく野球をやっているところが、自分のプレースタイルに合っていました」。全国屈指の激戦区、神奈川で勝負したい。「野球バカ」と言われたくなくて、学業にも力を注ぎたい。その思いを胸に故郷の岐阜を離れ、部員約100名の大所帯へ飛び込んだのだった。
慶應で出会った「世代最強」の仲間たち
負けず嫌いすぎるエース
慶應で待っていたのは、上田誠監督との出会い。「高校野球の監督は雲の上の人という印象でしたが、上田さんは選手と近い距離にいてくれます」と信頼を寄せる。「もともとバッティングの方が好き」と話す通り、県秋季大会ではチームトップの打率5割の成績。「中学生の時、父親にスイングの軌道や振り方を教わったことが生きてますね」。
投打に大車輪の活躍だが、本格的にピッチャーを任されるようになったのは、慶應に進んでからのことだ。MAX146キロの速球は地肩の強さに恵まれたこともあるが、夜一人で壁当てを続けるなど努力を積み重ねて、どんどん球が速くなった。ピッチングの調子が崩れた時は、動画サイトでプロ野球選手のフォームを見て研究している。「ピッチングフォームは前田健太投手(広島)、リリースポイントなら藤川球児投手(阪神)を参考にしたり…。学校の昼休みや大会期間中も、携帯サイトから1日に20回くらい見る時もありました」。
秋の公式戦は10試合で67奪三振。全国屈指の右腕に成長
完璧主義。そして「負けず嫌いすぎる」と自らを分析するエース。目指すは「信頼感のある、三振が取れるピッチャー」だ。白村投手を支えるのに、女房役のキャッチャー植田忠尚主将(2年)の存在は欠かせない。そしてもう一人、「ブルペンキャッチャーの堀(智起選手・2年)は、常に自分の調子やフォームを全部分かってくれています」。公式戦のブルペンでは、堀選手が投手陣をいつも力強く叱咤激励していた。関東大会以降、筋膜炎による腰痛で思うように投げることができなかった白村投手にとって、堀選手の存在は大きな力になったようだ。
関東大会に優勝して。バッテリーを組む植田主将と(左)〔左〕 堀選手(前列左から2人目)たちと選抜決定を受ける〔右〕
は、甲子園で活躍が期待される1年生ピッチャー・瀧本健太朗投手、明大貴投手に注目します。お楽しみに!
※選手の学年は2月10日現在
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