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元オリンピック陸上選手苅部俊二のダッシュ

vol.31「走高跳」

 ハマスポでも大きく扱われていましたのでご覧になった方もいらっしゃると思いますが、9月29日(土)に「2012世界トライアスロンシリーズ 横浜大会」が行われました。トライアスロン世界大会第7戦のこの横浜大会は、オリンピックに出場した選手が多数集う世界トップクラスの大会です。観戦に行かれた方も多いのではないでしょうか。


高橋侑子選手

 実はそのエリート女子の部で日本人トップの13位に入賞したのが法政大学の高橋 侑子選手です。高橋さんは私の所属する法政大学スポーツ健康学部2年生で、私たちの練習している陸上競技場のまわりでよくラン・トレーングをしています。ランに課題があると言っていましたが今回はうまくいったようですね。おめでとう!

 リオ五輪を目指して頑張ってほしいものです。

 さて、私はというと10月初め、今年も国体に行ってきました。今年の国体会場は岐阜県です。陸上競技の会場は、金華山のふもと長良川沿いの風情のある競技場で、今年も熱戦が繰り広げられました。

 陸上競技神奈川県勢は苦戦していてはいましたが、天皇杯8位、皇后杯11位とまずまずの成績でした。

 今大会の神奈川県選手の優勝者は2名。1人目は少年男子共通5000mW(競歩)では横浜高校の松永大介選手で見事に2連覇を達成、もう一人は成年男子共通走高跳の高張広海選手(日立ICT)が初優勝しました。昨年は松永選手が優勝したので競歩という種目をハマスポで紹介しましたね。

 今回は高張選手の優勝した走高跳という種目についてお話ししましょう。

 ご存じとは思いますが、走高跳という種目は助走をしてバーを跳び越え、そのバーの高さを競う競技です。世界記録はキューバのソトマイヨール選手が持っていて、2m45という高さを跳んでいます。この高さは、電話ボックス(2m26)よりもはるかに高く、男子バレーホールのネット(2m43)をも越えてしまいます。

 女子でも2m09(コスタディノーワ・ブルガリア)と2mを軽く越えています。日本記録は男子が2m33(醍醐直幸選手)、女子が1m96(今井美希選手)です。

 この走高跳、歴史は古いのですが、古代ギリシアの競技会に「幅跳び」の記述は在りますが、高跳びの文字は見当たらず、古代ギリシアでは行われていなかったようです。ですから、歴史的にみると、走幅跳よりも遅く開始されたと言われています。

 儀式や祭りなどで高跳びに類似したものは古くからあったと思いますが、明記されているものでは、イギリスのウォーカーが著した1834年の「英国男性の身体訓練」に軍事訓練の一環に「上方に跳び上がる動作」として「走高跳」や「立高跳」が紹介されたのが最初ではないかと言われています。

 1850年ごろ、イギリスで陸上競技大会が開催されるようになって、「走高跳」が採用され始めます。1865年には「第1回オックスフォード対ケンブリッジ大学対抗戦」で5フィート5インチ(1m65)をグーチ選手が跳んだという記録が残っています。

 その当時、ジャンプした後の着地に今のようなマットは当然なく、砂場もなかったようで、芝生や皮などであったようです。跳び方はバーに向かって正面から助走し膝を曲げてバーを越していく方法です。この跳び方で1881年には1m90を超え、人類は自分の身長以上の高さを跳ぶことができるようになりました。


高見沢忠雄(1925):オリンピック競技の組織的研究. フイィルド篇より

 身長を超える跳躍が可能となり、跳躍方法も改良されます。1880年代のアメリカ選手権で「イースタン・カットオフ」と呼ばれる跳び方が主流になります。この跳び方は、バーの正面から助走して、踏み切り後、脚を交互に広げていきます。日本では「正面跳」と呼ばれました。1894年、アメリカのスイニー選手はこの跳び方で1m97を跳びました。しかし、正面跳びは2m越えまで後わずかのところまで来ましたが、2mには届きませんでした。

 ≪イースタン・カットオフの技術≫

 人類が、初めて2mを越えたのは1912年アメリカのホーリン選手でした。ホーリン選手の跳躍法は助走を斜めに走ってくる新しい跳び方でした。この方法は「ウエスタン・ロール」や「ロール・オーバー」と呼ばれ「イースタン・カットオフ」と共に当時の主流の跳躍法となりました。

≪ウエスタン・ロールの技術≫

 1930年代に入るとさらに新しい跳び方が出現します。この跳躍方法は飛躍的に走高跳の記録を伸ばしました。この跳躍を編み出したのはアメリカのアルブレッド選手で、斜めにバーに向かって助走するのは同じですが、バーの上で腹ばいになる跳躍姿勢をとります。この跳躍法は「ベリーロール」と呼ばれ、1936年には2m07、1941年にはスティアーズ選手が2m11を跳び、記録を伸ばしていきます。

≪人類で初めて7フィート(2m13)を跳んだデュマス選手(1956)≫

 1960年代には今のようなマットが開発され、ベリーロール全盛期を迎えます。ベリーロールは最終的に2m28まで記録を向上させました。

 そして1968年、さらに革命的な跳躍方法が編み出されます。その跳躍法は背中でバーをクリアする方法でした。この跳躍法を考案したのはアメリカ・オレゴン州立大の学生のフォスベリー選手でした。この跳躍法は1968年メキシコ・オリンピックで披露されフォスベリー選手は見事に金メダル(2m24)を獲得しました。メキシコ・オリンピックで初めて彼の跳躍をみた観客は相当な衝撃だったと思います。この跳躍法は彼の名前をとって「フォスベリー・フロップ」と呼ばれています。日本では「背面跳び」と言われ、現在最もポピュラーな跳び方です。

≪メキシコ・オリンピックのフォスベリー選手の跳躍(1968)≫

 背面跳びは1973年ストーンズが2m30を跳ぶと、背面跳びに対抗し存続していた「ベリーロール」は姿を消し、背面跳びが世界を制するようになります。そして、1993年ソトマイヨールの世界記録(2m45)が生まれます。

 このように、走高跳は跳び方の進歩や、道具、用具の改良によって記録が更新してきました。ソトマイヨールの記録も20年近く前の記録になってしまいました。彼は既に引退しています。誰がこの偉大な記録を更新するのかが注目されています。

 今のところ更新しそうな選手は出てきそうにありませんが、もしかしたら世界のどこかで人々があっと驚く新しい跳躍法が開発されるかもしれませんね。

苅部俊二 プロフィール

1969年5月8日生まれ、横浜市南区出身。

元オリンピック陸上競技選手。横浜市立南高等学校から法政大学経済学部、富士通、筑波大学大学院で競技生活を送る。

現在は法政大学スポーツ健康学部教授 コーチ学(スポーツ心理学) 同大学陸上競技部監督 法政アスリート倶楽部代表 日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター兼オリンピック強化コーチ(ハードル)。

2007年から日本陸上競技連盟強化委員会の男子短距離部長を務め、世界選手権(2007大阪、2009ベルリン、2011大邱、2015北京、2019ドーハ)、オリンピック(2008北京、2012ロンドン)に帯同。

また、2014年には日本陸上競技連盟の男子短距離部長へ復帰し2016リオデジャネイロオリンピックに帯同し、日本短距離男子チームの責任者として同行した。

1990年代を代表する陸上競技者として活躍。1996年のアトランタと2000年のシドニーオリンピックに出場、世界室内陸上競技選手権大会400mで銅メダルを獲得するなどの活躍を見せた。元400mハードル日本記録保持者。

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