vol.49「波乱万丈」
波戸康広さんのキャリアは振幅に富んでいる。サイドバックとして日本代表を務めた名手だが、サイドバックの特徴である「アップダウン」をまさにキャリアのなかでも繰り返した。とんでもなく劇的なサッカー人生なのだ。波戸さんほど波乱万丈を地で行った選手もいない。そして素晴らしいのは経験から学び、ハートを磨き上げていったことじゃないだろうか。
波戸さんと横浜のつながりは高校選手権の三ツ沢での敗退で始まったそうだ。兵庫県三原郡西淡町(現・南あわじ市)出身、名門滝川二高から1995年、横浜フリューゲルスに入る。滝川二高時代、特別コーチとして薫陶を受けたゲルト・エンゲルス氏(後のフリューゲルス監督)がサテライトコーチだった。元々のFWからサイドバックへのコンバートはエンゲルス氏の指導だった。
波戸さんの負けじ魂に目をつけたエンゲルス氏は「FWとしてのセンスがない」とあえて突き放したそうだ。それが勝負どころでの攻撃センスに恵まれたサイドバックを生むことになった。当時はまだ日本サッカーに戦術的なサイドバック像が確立されていない。コンバートは波戸さんの選手としての可能性を大いに広げるものだった。
が、過酷な運命が待っていた。横浜フリューゲルス解散だ。この物語をていねいに描くと紙数が何枚あっても足りない。Jリーグ史上、最も悲劇的な事件だ。親会社の撤退を受け、クラブ合併及びチーム解散が決まる。そのとき、フリューゲルスはどうしたか? 新たな出資者の出現を促すために、また一日でも長くチームを存続させるためにリーグ戦、天皇杯で勝ち続けるのだ。天皇杯はついに決勝までコマを進め、1999年元日、涙の優勝(即解散)劇が大きな話題となった。僕は当時、文化放送の朝ワイド番組のパーソナリティーとして、「フリューゲルスを応援してください」と連呼していた。その決勝のピッチに波戸さんがいた。
「署名活動で街頭に立ったりして、負けたら終わりだったから一試合一試合、一致団結して戦ったらあんなことができたということですね。奇跡だけど奇跡じゃないんですよ。先のことなんて誰も考えてないですよ。そのとき勝つだけ、やり切るだけでした」
波戸さんと横浜の縁はそこで途切れなかった。横浜F・マリノス。新たに「F」の文字の加わったマリノスからオファーを受ける。フリューゲルスのサポーターは心中、複雑だったに違いない。横浜ダービーを戦った相手に波戸さんが加わるのだ。トリコロールの波戸さんを見るのはつらかったに違いない。が、一方で彼が「F」の文字を体現してくれてるような気持ちにもなったのじゃないか。波戸さんは年齢的にもいちばん充実した時期を迎える。
トルシエジャパンに招集されたのは日韓W杯の前年(2001年)だった。デビューは欧州遠征でフランスに惨敗を喫した「サンドニの悲劇」の次の試合、不沈艦隊・スペイン戦だった。サッカーファンが日本代表の今後が心配で心配でたまらなくなったとき、思い切りのいいサイドバックがすい星のように出現したのだ。
「初めての代表戦はスペイン戦。フランスに5-0で負けた次の試合でしたし、自分が先発で出るとは思っていませんでした。スペインから家に電話したとき『正直怖い』『自信ないんだよ』みたいな言葉を父に言ったら『プロになってそんなこと思ってるんじゃ、もうやめた方がいい。すぐ日本帰ってきてサッカーやめろ』って言われて。グラウディオラ、ラウル、横で入場してくる時とかも『テレビで見た顔だ!』 なんて感じだったんですけど、父の言葉でいつもの自分に戻ったんですよ。試合の一番はじめ、バルセロナのセルジっていう左サイドバックに僕、仕掛けたんです。足引っ掛けられてファウルになったんですけど、その時『行ける』と思いました。試合は負けましたけれど、そこからまた高い意識を持てました」
僕は波戸さんは自国開催のW杯に出場すると疑わなかった。その頃はスカパーの『ワールドカップジャーナル』という番組のMCを務めて、サッカーのことばかり考えていた。そうしたら本大会には市川大祐が選ばれたのだ。選手としたらハシゴ段をいきなり外されたようなものだ。
「父にはワールドカップ落ちた時も『ラジオで聞いたよ』『残念やったけど、トルシエさんに感謝せなあかんな』『これだけ国際舞台でいろいろ経験させてもらって、成長もさせてもらって、それは絶対感謝せなあかん。今は落ちたかもわからないけどそっからもう一回自分がどうしたら上手くなれるのかとか考える、その機会を与えてくれたんだから』って言われて。そのときすぐ妻に『子どもが小学1年生なるまで、俺絶対やるから』って言えたんです。しかもJ2じゃなくてJ1の舞台でやるって言って。そして35歳、横浜で、F・マリノスで、引退しました。あの時の事がなかったらもっと早くやめていたかもしれないですよね」
波戸さんは不屈の男だ。数々のアップダウンを糧として生きる。リーグ優勝も天皇杯優勝も、入れ替え戦もJ2落ち(柏レイソルがバレーの「ダブル・ハットトリック」を食らって降格した試合にも波戸さんは居合わせた)も、すべて経験しているサッカー選手は例がないのじゃないか。2011年12月3日の鹿島戦をもって現役を引退、翌2012年より横浜F・マリノスのアンバサダーに就任した。
感動的だったのは2014年1月、ニッパツ三ツ沢競技場で行われた引退試合だ。何と「マリノスvsフリューゲルス」の横浜ダービーが再現されたのだ。両チームのチームメイトが顔を揃えたさまは壮観だった。キャリアのほぼすべてを横浜の街に捧げた波戸さんにしかできないことだった。
「高校時代に選手権で負けたのも三ツ沢、プロでデビューしたのも三ツ沢。その三ツ沢にもう一度フリューゲルスとマリノスの当時のメンバーが集まった。最高の終わり方をしましたね。当時(フリューゲルスの)キャプテンだった山口素弘さんが引退試合が終わった後に泣いてたんですよ。『お前のおかげでこのメンバーが集まってよかった』って。僕の引退試合っていうよりも、当時のみんなの想いがつまった試合だったんでしょうね」
コラムニスト
1959年8月13日生まれ中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。
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「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか
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