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えのきどいちろうの横浜スポーツウォッチング

vol.48「ずっと会いたかった」

 

 

 読者は畠山準(はたやまひとし)さんを覚えておられるだろうか。「攻めダルマ」の異名をとった蔦文也監督の池田高校で1982年夏、甲子園優勝(1学年下には水野雄仁がいた)、その年、南海のドラフト1位指名を受け、鳴り物入りでプロに入った。甲子園のスターは中百舌鳥(南海の2軍球場&合宿所があった)に女性ファンを呼び込んだ。高卒2年目の84年は勇躍、1軍での出場機会を得て23試合に登板、5勝12敗の記録を残す。

 

 が、その後、成績は下降線をたどり、87年、外野手に転向し話題になる。この後が畠山さんの真骨頂だ。「甲子園スターのフェードアウト」では終わらない。泥にまみれて一から打者・畠山をつくり上げる。91年、大洋に移籍してついにレギュラーを掴み取り、オールスターにも選出される。当時、スポーツ紙で「遅咲きの野球人生」「苦労人の再生ストーリー」として大いに書きたてられた。ちなみにマンガ家・やくみつるさんのもう一つのペンネーム「はた山ハッチ」は、畠山さんの現役時代の愛称「ハッチ」に由来する。

 

 僕はずっと畠山さんに会いたかった。同世代のプロ野球選手というだけでなく、親近感を感じていた。というのはライターとして駆け出しの頃、大変お世話になった集英社のTさんからいつも話を聞かされていたのだ。集英社のティーン向け女性誌『Seventeen』は当時は『週刊セブンティーン』という活版の雑誌で、甲子園を扱っていた。Tさんは毎夏、長期取材に出かけ、大会が終わると真っ黒に日焼けして神保町に帰ってきた。

 

 で、当時の雑誌社の現場について説明する必要があるのだが、これがFAXもメールもない頃なのだ。僕らフリーは毎晩、神保町へ行って仕事をしていた。集英社の会議室を取ってもらって、テーブルで明け方まで手書きの原稿を書く。自然、編集者とのつき合いは濃密になって、夜遅く仕事の手を休めてあれこれ話し込む感じになった。そんなとき、よく畠山さんの話が出たのだ。最初は「南海の畠山」、次が「ダイエーの畠山」。僕は20代で、前途に何が待っているのかわからずにいた。畠山さんも20代で、プロ野球の投手として活躍し、やがてそれを断念して打者転向を果たす。

 

 すごく励まされたのだ。仕事が忙しくてあんまり球場へは行けなかったが、『プロ野球ニュース』ではいつも畠山さんを気にしていた。また集英社のTさんが「こないだ会ってメシ食ったら、畠山打者に専念するって」なんて噂を聞かせてくれる。もう、僕は畠山がんばれだ。オレもがんばる畠山がんばれ。畠山さんが大洋に移籍した頃は、僕も連載が増えてラジオの番組も持った。オールスターはテレビで見たな。畠山選手の晴れ舞台に拍手を送った。でもね、なかなかお会いする機会がなかったのだ。だってこういうのはこっちの一方的な話でしょ。

 

 「集英社のTさんはお世話になりました。懐かしいですね。カメラマンはKさんという方でしたね。僕は最後の夏1回しか甲子園へは行けなかったんですよ。1年から3年の夏まで5回のチャンスを4回つぶしてるんで、最後の夏はすごいプレッシャーでした。最後の最後に甲子園へ行けたときはうれしかったというよりホッとしたのを覚えてますね。その甲子園でTさんに取材していただいたんです」

 

20160316畠山準さん (5) 20160316畠山準さん (7)

 

 プロ野球選手としての生涯記録は、55試合登板、6勝18敗(6完投、1完封)、99奪三振、防御率4.74。862試合出場、1892打数483安打、57本塁打、240打点、8盗塁、打率.255。投手としても打者としても超一流とは言えないかもしれない。が、ドラマのある選手だった。そのドラマ性をファンは忘れかねている。

 

 「ピッチャーで入ったんでピッチャーで終わりたかったっていうのが理想でした。でも、ピッチャーではダメって烙印を押されてあきらめかけたとき、バッターとしてのチャンスをもらったんです。そのとき、もう1年ユニホームを着られるって思ったんですね。プロ野球のユニホームを着られるんだからやってみようと切り替えたんです。オフはずっと南海の室内練習場のカギ預かって、正月もずーっとバットを振ってました」

 

 畠山さんは大谷翔平以前に二刀流をやってたことになりますね、と水を向けたら面白い話が聞けた。外山義明。ヤクルト、ロッテ、南海と渡り歩いた「二刀流」の先達がいる。ヤクルト時代はリリーフでも代打でも重宝された選手だ。投手として9勝を挙げた後、野手に転向した。大谷の二刀流挑戦が報道された頃、前例として関根順三、永淵洋三らとともに名前が出た。その「二刀流・外山」が畠山さんの打者転向をバックアップしたというのだ。もちろんコーチではない。が、つきっきりの指導だった。南海で外山に面倒をみてもらったことは畠山さんの一生の財産だ。

 

 「ダイエーを戦力外になったとき親父に電話したら、ご苦労、帰って来いって言われたんですね。ご苦労さんなんて言ったことない親父だったんで心に響きました。これはもう一回やらなあかんなと、そう思ったときに大洋からテストの話をもらって。このときもまだチャンスある、ユニホーム着られるって」

 

 そのテスト入団の大洋ホエールズで花を咲かせる。勝負強い打撃に磨きをかけた。98年の横浜ベイスターズ日本一にも立ち会った。その日本シリーズ第3戦、西武が左の竹下潤に継投した場面で畠山さんが代打で出てきたのだ。僕はそのときネット裏にいた。畠山さんはプロ16年目だ。僕は文化放送で朝ワイドのパーソナリティーをしていた。本当にうれしかった。大声で名前を呼んだ。あのときは確かフライを打ち上げて凡退したんだよ。凡退してもね、拍手を送った。同じ時代を生きたスターなんだ。感動するよ、日本シリーズの打席を務めたんだ。

 

20160316畠山準さん (27) 20160316畠山準さん (35)

えのきどいちろう プロフィール

コラムニスト

1959年8月13日生まれ
中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。

Book
「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか

Magazine/Newspaper
「がんばれファイターズ」(北海道新聞)/「新潟レッツゴー!」(新潟日報)ほか

Radio/TV
「くにまるジャパン」(文化放送)/「土曜ワイドラジオTOKYO」(TBSラジオ)ほか

Web
アルビレックス新潟オフィシャルホームページ
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Web
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「えのきどいちろうのファイターズチャンネル」

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