vol.11「野球の多様性」
野球意匠学研究家。おそらく、というか間違いなく綱島理友(つなしまりとも)が日本で初めて名乗った肩書きだと思います。「意匠」はデザインだから、野球のデザインを研究する仕事。今月は僕の尊敬するライターにして、ベースボール生活の実践者、綱島理友さんを紹介させてください。目下、大著『プロ野球ユニフォーム物語』の改訂版執筆のため、横浜市港北区綱島のご自宅にこもっておられる。今回、取材のアポをとったら「毎日、家で書いてるだけだからいつでもおんなじ。いつでもいいよ」と豪快な返事をくれた。
『プロ野球ユニフォーム物語』は05年4月に上梓され、大評判になった。これは一種のイラスト図鑑であり、野球事典だ。戦前からの日本のプロ野球史がユニフォームの変遷を通して見渡せる、圧倒的な労作ですね。発表されて野球ファンと同じくらい、球界からの反応があった。読者は00年代のプロ野球シーンに突如、「復刻版ユニ」のトレンドがつくられたのをご記憶だろう。これは同書がもたらしたものだ。それは例えば今シーズン、オリックス×ソフトバンク戦が「近鉄×南海」ユニで開催される土台になっている。また埼玉西武ライオンズが意欲的にとり組んでいる「ライオンズクラシック」企画の仕掛け人でもある。綱島さんのおかげで「西鉄ライオンズ」と「西武ライオンズ」の歴史は初めて連結されたのだ。
まぁ、だから一種の「野球博士」ですよ。日本屈指の「野球博士」が横浜市に住んでるんだと思って、大いに誇りとしてください。僕は知己を得て、かれこれ15年くらいですね。そもそもの出発点は、ほぼ同世代の雑誌エディター、ライターってことになるんだけど、綱島さんはマガジンハウス、僕は小学館、集英社と主戦場が違ったから30代半ばまで一面識もなかった。といって『ポパイ』誌の人気連載だった『街のイマイチ君』のことはよく覚えている。「綱島に住んでてフィアット・リトモに乗ってるから綱島理友」なんて面白いなぁと思っていた。
初めてお会いしたのは『週刊ベースボール』誌の対談だ。これは好評だったとみえて、隔月刊の『ベースボールマガジン』誌にところをかえての恒例企画になる。事実上の連載だ。そんな対談企画、なかなかないではないか。いつ見ても綱島さんとえのきどが話し込んでいる(!)。メイン特集が「変化球投手」なら古今東西のエースを、「外国人助っ人」なら思い出の大砲を。おそらく5、6年、綱島さんと隔月で野球談義を続けたのだった。また不思議なことに綱島さん相手ならいくらでも話が続く。
今回、お伺いしたのはホームタウン、横浜への思いを聞こうと思ったからだ。まぁ、『プロ野球ユニフォーム物語』の改訂版に着手しているというだけで、充分大ネタというべきで、独立リーグや限定ユニフォームまでをも視野に入れた今回の改訂はおそらくまた評判を呼ぶ。が、横浜市体育協会のコラムで「綱島さんの横浜」について取材するというのはすごく面白い。あれだけ対談を重ねたのに横浜ベイスターズへの思いは語ってもらっても、街そのものについては聞きもらしていた。
「生まれたのが野毛(横浜市中区)なんですよ。ちぐさっていう有名なジャズ喫茶があった(07年、73年の歴史に幕を下ろし、いったん閉店。12年3月11日、元常連客らによる「ちぐさ会」の運営により、場所を移して復活した)んですけど、その隣りの自転車屋。で、朝起きるとコーヒーの匂いするわけですよ。毎朝、ちぐさがコーヒー淹れるんですけど、その香りがしみこんでる。だから外から見てる横浜とは違うんだけど、自分の記憶の横浜は何かコーヒーの匂いとともにあった、そんな感じがしてるんだよね」
一家はその後、池袋へ引っ越す。だから綱島さんが育ったのは池袋の街だ。もっとも父方のおじいさん、おばあさんは野毛に残ったからしょっちゅう東横線に乗って会いに行かれたそうだ。なかなかこういう風に横浜の土着的なインサイド(野毛)、アウトサイド(池袋)、そしてその後に引っ越すニュートラルゾーン(綱島)と三層を体感している人は珍しいんじゃないか。ところで綱島さんといえば「大洋ホエールズ子供会」入会以来のホエールズ・ベイスターズファンだ。
「たまたま父親の会社のソフトボール大会に連れていかれて、それがホエールズの2軍の練習場のあった川崎市の丸子、今の等々力球場(川崎市中原区)のある辺りなんだけど、ちょっとオヤジたちの試合に退屈して近所を歩いてたんだね。そうしたら投球練習場だったのかな、青い壁があって、そこにボールぶつけて遊んでたら、外国人がキャッチボールしようって声かけてきて、それでキャッチボールしたら、後で聞いたらそれが大洋のアグリー(米ハワイ出身の内野手。日本球界には大洋を皮切りに3球団、計8年在籍し、772試合に出場)って選手だった。あれ、プロ野球選手とキャッチボールしちゃったよって。それから大洋を意識するようになって、アグリーのファンから大洋ファンになった。小学校3年ですね」
時代は「巨人、大鵬、タマゴ焼き」だ。池袋の同級生にも巨人ファンしかいない。というか当時は子供用の野球帽は巨人のものしか売られていないといってよかった。少数派の立ち位置はいつしか綱島さんのアイデンティティになる。
「で、中学生のときに綱島へ引っ越すわけですよ。そしたら球団も来ちゃったんだよね。川崎から横浜へ。それで、あ、やっぱり引っぱりあってる部分あるなって勝手に思って。それでやっぱり弱かったからね。『絶対優勝しないチームを応援する』ってスタンスが自分のなかで確立していった。勝利とか優勝とか、フツーのチームのファンが意識するのとは別の見方をせざるを得なかった、そういうところが培われたんです(笑)」
綱島さんがもし、多摩川の逆側、巨人軍グラウンドのほうで遊んでいて、キャッチボールしてくれた相手が例えば国松彰(巨人一筋15年の投手、外野手。1378試合出場。引退後はヘッドコーチを務める)だったら、勝敗に一喜一憂するタイプになって、大著『プロ野球ユニフォーム物語』は生まれていない可能性があるわけだ。野球の多様性に目を向ける人になってくれてよかった。
「思い出深いのは高校生のとき、オープン戦で毎年、平和球場のロッテ戦があるんですよ。で、外野はもう塀なんかないわけ。行ったらそのままタダで見れちゃう(笑)。それを見るために電車乗って桜木町まで行って、桜木町から歩いて横浜公園まで行くっていうのが春休みの恒例行事だった。内野席なんかが立ち入り禁止になってたんだよね。床が抜けてたりして。だからあれは70年代入ってちょっとしてって感じかな」
横浜公園内にあった平和球場(「横浜スポーツ百年の歩み」より)
かつてGHQに接収され「ルー・ゲーリック・スタジアム(1934年、米大リーグ選抜軍が来日し、プレーしたことにちなむ)」と呼称された同球場は日本に返還され、55年、「横浜公園平和野球場」と改称される。綱島さんはその最後の勇姿に間に合っていたのだ。高校生の綱島さんの知らないところで、既に大洋球団と横浜市は(平和球場解体→新スタジアム建設にともなった)移転の覚書を交わしていた。
綱島理友オフィシャルサイト(http://www.ritomo.jp/)
コラムニスト
1959年8月13日生まれ中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。
Book
「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか
Magazine/Newspaper
「がんばれファイターズ」(北海道新聞)/「新潟レッツゴー!」(新潟日報)ほか
Radio/TV
「くにまるジャパン」(文化放送)/「土曜ワイドラジオTOKYO」(TBSラジオ)ほか
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「アルビレックス散歩道」
Web
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