vol.10「横浜スポーツ史総覧」
3月上旬のすっかり春めいた金曜日、文化放送の出番を終えてそのまま関内まで足を伸ばした。横浜開港資料館と横浜都市発展記念館で、注目すべき企画展をやっている。文化放送の朝ワイド出演はもう慣れたけど6時起きだ。出番が終わると緊張が解けるのか猛烈な眠気に襲われる。その日も京浜東北線の車中で居眠りした。陽気がポカポカしてくると電車で寝ますよね。
横浜開港資料館(左)と横浜都市発展記念館(右)
関内で下車してハマスタを通り過ぎながら大きく伸びをする。気分最高。春はいいね。これから見る企画展は連動したもので、横浜開港資料館のほうが『近代横浜スポーツ史/スポーツがやってきた!』、横浜都市発展記念館のほうが『ベースボール・シティ横浜/ハマと野球の昭和史』。いかに横浜という街が近代スポーツと結びつき歴史を刻んできたか、ひとつ総覧してみようという趣旨だ。「横浜スポーツウォッチャー」としてコラムを担当する筆者としては願ったり叶ったりでしょう。
『近代横浜スポーツ史/スポーツがやってきた!』 (展示期間:2013年1月30日(水)〜4月21日(日)まで)
横浜開港資料館の『近代横浜スポーツ史/スポーツがやってきた!』展はちょっと圧巻だった。読者は「スポーツ」という文化というか習俗がどういう形で日本にもたらされたか想像してみたことがあるだろうか。これは外来種なのである。欧米由来の概念。おそらく黒船が来航する幕末になるまで日本に「スポーツ」はなかった。あったのは武道であり、修練だったろう。
幕末の横浜にフットボール場ができ、競馬場が作られる。ボート競技やラケットコート・ゲーム(スカッシュに似た競技)、クリケットが楽しまれる。僕が感じ入ったのは、まず当時の競技場の写真だ。自然をつくり変えて、競馬場のコースやグラウンドが建造されている。こんな大がかりな規模のものが幕末の横浜にあったのか(!)。いや、だって考えてもみて下さいよ。幕末やってきた欧米人たちは、まぁ多くは貿易やなんかで稼ぎに来ていたわけでしょう。ひと財産作ったら帰国する前提の、いわば仮住まいだ。こんな大がかりなもの作る必要あったのか?
根岸競馬場の写真展示
だから発想の違いですよね。僕は21世紀の日本人だけど、自然をつくり変えるのにおそれを感じている。なるべくなら自然の地形をそのままにして、駆けっこでも遠泳でもやればいい気がする。インフラとしては道場がせいいっぱいですよ。第一、仮住まいなんだもん。それが欧米人はダイナミックなんだなぁ。生活を楽しもうとする。僕は英語の「プレー」という言葉を思い出した。プレー フットボールの「プレー」です。競馬のような賭け事や、球技って例えば武道のような実用から遠いものですよね。「プレー」の領域だ。遊び。つまり、こういう風に「スポーツ」は外来種なんですよ。
「居留地の人々とスポーツ」の展示
展示を見ていたら「インターポート大会」という記述があって、当時、どうも横浜在住の欧米人が組織したYC&AC(横浜クリケット・アンド・アスレチック・クラブ)はKR&AC(神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブ)と野球やフットボールで港対抗戦やってるだね。これは「クラブ」の創始であり、「ダービーマッチ」の創始です。展示には競技別のクラブ設立一覧表もあって、横浜がクラブスポーツ事始めにどれだけ深い関わりがあるかを知ることができる。
ひとつ興味がわいたのは、それらの欧米人創始のクラブ(例えばYC&AC)が何故、今の横浜DeNAベイスターズや横浜F・マリノス、横浜FCに連続していないかですね。世界のクラブチーム史を見ると、イギリス人はどこへ行ってもスポーツクラブを創始している。ジーコが在籍したブラジルの名門クラブ、フラメンゴは正式名称「クールベ・ジ・ヘガータス・ド・フラメンゴ」(フラメンゴ・レガッタクラブ)だ。サッカーよりもレガッタレースが先だった。似てるでしょ。世界じゅうでこういうことがあり、最初はイギリス人だけでやってたものが現地人(っていうか本来のその国の人)がプレーに加わるようになって、そのうちにイギリス人を負かす日が来る。で、大体、クラブが引き継がれるんだね。フラメンゴもブラジル人に引き継がれた。何故、横浜では連続しなかったのか?
『ベースボール・シティ横浜/ハマと野球の昭和史』(展示期間:2013年2月2日(土)〜4月7日(日)まで)
横浜都市発展記念館の『ベースボール・シティ横浜/ハマと野球の昭和史』展は実に楽しかった。これも明治4年、日本で最初に行われた野球試合、「横浜在住外国人チームvsアメリカ軍艦コロラド号の水兵チーム」から語り起こされているが、展示の主力は大正・昭和の野球熱だ。外来種であった「スポーツ」は学校体育の形式をとって日本に土着化していく。
「ハマの早慶戦」の展示
面白いのは昭和初期に流行したという「○○の早慶戦」というネーミング。かつて日本じゅうに「○○銀座」という商店街があったのと同じで、全国に「○○の早慶戦」と呼ばれたダービーマッチが存在した。「ハマの早慶戦」は横浜高等工業学校(現・横浜国大理工学部)と横浜高等商業(現・同大経済学部)の対抗戦。ちなみにこれが「新潟の早慶戦」となると新潟高校と新潟商業である。戦前はアマチュア野球全盛期であり、「○○の早慶戦」は地元ファンの熱狂的な人気を博した。比喩でなく、街じゅうの話題をさらったのだ。
「アメリカ大リーグの来日と職業野球の開幕」の展示
昭和6年と9年に来日した大リーグ選抜軍の記憶も横浜に刻みつけられている。6年にはルー・ゲーリックが、9年にはベーブ・ルースが横浜公園のグラウンドに立った。対戦したのは学生OBや社会人の選手らで、もちろん日本にプロ野球チームはまだ存在しない。この大リーグ選抜軍の興行的成功が日本のプロ野球誕生のきっかけをつくる。
「横浜大洋ホエールズ」の展示
戦後の横浜野球は甲子園や都市対抗の活躍で彩られるが、何といっても「横浜大洋ホエールズ」(現・横浜DeNAベイスターズ)の誕生がエポックメーキングだ。その時期、僕は川崎市多摩区に住む学生で、大洋が川崎を捨ててお洒落なイメージの横浜へ移転してしまったのを複雑な思いで見つめた。大体、ユニホームがアカ抜けた。川崎球場の時代はアスレチックスを模したオレンジとグリーン(肩のマルハマークが泣けた)、横浜スタジアムへ移ってからは濃紺のカッコいいものになった。
「スーパーカー・トリオ」が疾走し、ミヤーンが快打を放つ。遠藤一彦が快刀乱麻のピッチングを見せ、山下大輔が美技を披露する。田代富雄のホームランは美しい放物線を描く。展示物や写真パネルを見ていて、僕は「横浜大洋ホエールズ」に心揺さぶられた。それは平成10年の「横浜ベイスターズ日本一」よりも心の深い部分にあるのだなぁと思う。
横浜都市発展記念館を出たら、汗ばむような陽気になっていた。これは5月ぐらいの気温だ。今年はどんなスポーツシーンが横浜を舞台にくりひろげられるだろう。つまり、歴史は続いていく。
コラムニスト
1959年8月13日生まれ中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。
Book
「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか
Magazine/Newspaper
「がんばれファイターズ」(北海道新聞)/「新潟レッツゴー!」(新潟日報)ほか
Radio/TV
「くにまるジャパン」(文化放送)/「土曜ワイドラジオTOKYO」(TBSラジオ)ほか
Web
アルビレックス新潟オフィシャルホームページ
「アルビレックス散歩道」
Web
ベースボールチャンネル
「えのきどいちろうのファイターズチャンネル」
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