vol.8「折鶴」
関東平野が雪で真っ白になった1月中旬、日産スタジアムに出かけた。かつてこのスタジアムの場長を務められた西田善夫さんと待ち合わせだ。西田さんといえばNHKの名スポーツアナウンサーとしてオリンピックでは夏冬合計10回のテレビ、ラジオ実況を担当された方だ。僕は一体、何度、彼の実況を聞いて手に汗握ってきたことか。本当にお逢いできて光栄だ。
質問を丁寧に答える西田善夫さん
西田さんはNHKを退職された98年からの4年間、横浜国際総合競技場(当時の呼称)の場長としてワールドカップを経験している。僕はその記憶を語っていただきたかった。横浜市は02年日韓ワールドカップの決勝の舞台として世界に記憶されている街だ。読者も覚えておいでだろう。祝祭のような特別な1ヶ月の日々を。熱に浮かされたようにジダンをベッカムをロナウドをオリバー・カーンを追い、そしてトルシエジャパンに声援を送った日々を。
西田さんはその中心におられたのだ。時は経過して、それは10年以上前のことになったけれど、永遠の輝きがある。日韓ワールドカップは僕個人にとっても忘れ難い経験だった。大会の1年ほど前からスカパーで『ワールドカップジャーナル』という情報番組をスタートし、キャスターとして体力、知力の限りを尽くして奮戦した。決勝の夜はスタジアムの放送ブースにいた。ブラジルの優勝が決まって、プレスルームの知り合いと「終わっちゃったなぁ…」としんみり言葉を交わした。スタジアムのまわりにはどこからこんなに集まってきたのか、ブラジル人が大勢出てきて、太鼓を叩き、お祭りを繰りひろげていた。
「場長就任を要請されたのは98年の1月ごろです。その前の年、講演で横浜市が08年夏季五輪にも立候補しているのを批判して、今はワールドカップ決勝開催に絞るべきだと言っていたんですね。それを当時の高秀秀信市長が聞いておられたそうです。担当の方がNHKへやって来られて、声をかけていただいたんですが、98年というと長野五輪の年なんですよ。そんな直前までマイクの前でしゃべっていた人間が、別の競技のスタジアムの場長なんてやっていいのかっていう思いもありました。結局、長野五輪が終わって、4月からの就任ということで落ちついたんです」
98年は長野五輪とともにフランスワールドカップの年でもある。日本代表が初めて出場した記念すべき大会。サッカーファンが大挙現地入りしてチケット騒動が報じられた。その喧騒のなか、西田さんは場長の仕事を始められる。最初の課題は芝生の養生だった。
「このスタジアムは鶴見川の河川敷に1000本のクイを打ち、全体が柱の上に乗る形で建てられた植木鉢なんです。大屋根が日差しを妨げ、風も通りにくい。芝を根づかせるのは2人のグリーンキーパーも大変な苦労がありました。98年は神奈川国体が開催され、収益を上げるために矢沢永吉さんのコンサートも企画されたんです。嬉しい反面、使うと芝生は弱るんですね」
まだワールドカップ決勝会場は決していなかった。最終候補として挙がっていたのは横浜国際競技場と埼玉スタジアム2002だ。西田さんは新幹線を使えるアクセスの良さ、ホテル等の充実、約1万席多い収容力に自信を持っていた。不利な材料は埼玉スタジアムがサッカー専用グラウンドである点と、浦和レッズのサポーターを中心に活発な署名活動が展開されていた点だ。「横浜も積極的な誘致運動をしなくては」という声も向けられる。けれど、西田さんは無益な誘致合戦は避けたかった。それよりも最終的には芝じゃないかと考えた。
99年8月、決勝戦の横浜開催が決まる。さぁ、空前の大イベントの最も華やかな舞台を受け持つことになった。西田さんの業務は毎朝、芝生の見回りに始まり、夕方、もう一度見回って終了するルーティンだった。一度、考えごとをしていてうっかり芝生に乗ったら、モニターを見ていたガードマンが「芝生から出てくださーい」と飛んできたそうだ。もちろん、近づいて西田さんとわかる。「場長ですか、すいません」。西田さんは「よーし、警備はカンペキ!」とグーサインを送る(笑)。
本大会開催の1年前、スタジアムの芝の真価を問われる機会がやってきた。プレ大会の意味もある、コンフェデレーションズカップ開催だ。僕は準決勝戦の「日本×オーストラリア」戦を思い出す。視界がきかないくらいのどしゃ降りだった。梅雨どき開催の本大会シミュレーションにはなるかもしれないが、ちょっと選手にも観客にも酷な状況だった(実際は本大会ではあれほどのどしゃ降りの試合はなかった)。が、バケツをひっくり返したような豪雨のなかで、横浜国際競技場の芝には水たまりひとつできないのだ。あれは評判を呼んだ。
ワールドカップでの話を語る西田さん
「あれで自信がつきましたね。FIFAのブラッター会長も『素晴しい! ヨーロッパのピッチだったらウォーターポロ(水球)か中断だ』と握手を求めてきた。あの試合の決勝点は中田英寿選手のFKですけど、ちゃんと転がったでしょ。中田選手は試合後、『雨でボールは霞んだが、普通に転がっていた』とコメントしてくれた。僕はそのまま『普通に転がるピッチを作る』としてワールドカップへの標語にしました」
それではワールドカップのクライマックス、決勝戦の夜、西田さんはどんな光景をご覧になったのだろう。西田さんにはそもそも席が用意されていたのか? 長い準備期間を過ごして、ついに場長としての仕事も大団円だ。僕はあの祝祭のなか、西田さんがどう振舞われたのかに興味がある。
「席はありませんでした。モニターで見ていて、途中、場内の見回りに行ったんですよ。そうしたらVIP席の一角にカメラクルーの後ろになるから空けてある席を見つけて、そこに座ったんです。名古屋場所を控えた朝青龍(当時、関脇)がいましたね。あの人はサッカーが好きなんです(笑)。長嶋茂雄さん、ペレ、ジーコ…。ジーコはなぜか人目を避けるようにして、サッカー協会の席にいました。もうちょっと私が頭を働かせていたら、次期日本代表監督を確認できたんですが(笑)」
表彰式セレモニーでスタジアムに舞った折鶴
西田さんの心にいつまでも残る光景は表彰式セレモニーの後の「折鶴」だという。全国の小学生が約270万羽の折鶴を送ってくれて、会場屋根からそれが舞ったのだ。鶴が固まりで落ちないようにスタッフが歌舞伎の雪を降らせる技を学び、工夫をこらした。その光景を眺めているうち、西田さんは自然に涙が出てきたという。僕もあの日、それに見とれていた。
コラムニスト
1959年8月13日生まれ中央大学在学中にコラムニストとしての活動を開始。以来、多くの著書を発表。ラジオ・テレビでも活躍。
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「サッカー茶柱観測所」「F党宣言!俺たちの北海道日本ハムファイターズ」ほか
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