
vol.179「ケンタッキー・ワイルドキャッツ」
今回はアメリカのバスケットボール名門大学の一つ、ケンタッキー大学について書こう。
初めてケンタッキー大へ取材に行ったのは1978年。デューク大を94-88で下し、NCAAチャンピオンになった翌シーズンだった。
ケンタッキー州レキシントン市にあるケンタッキー大学のバスケットボール部は、1978年当時、NCAA優勝5回を誇るバスケ強豪大学。SEC(South East Conferenceという東部南地方を中心とした大学リーグ)所属。
伝説のアドルフ・ラップ・コーチが基礎を作り、ジョーB.ホール(日本の積水女子チームをコーチしたことがある)からリック・ピティーノに引き継がれる。
古くはダン・イッセル(デンバー・ナゲッツGM)、パット・ライリー(元ロサンゼルス・レイカーズ他HC、マイアミ・ヒート社長)、ケニー・ウォーカー(元ニューヨーク・ニックス他)、ジャマール・マッシュバーン(ホーネッツ他)アントワン・ウォーカー(ボストン・セルティックス他)等、数多くのスター選手をNBAへ送りだしている。
日本との関係も深く、元全日本監督の小浜元孝を始め4人がコーチ留学している。
短縮形は「UK」、ニックネームの「ワイルドキャット(山猫)」はスピードがあり勇敢なことから名付けられた。バスケ部だけではなく、UK全競技部のニックネームになっている。
スクールカラーのブルーから応援時には「Go Big Blue」とも呼ばれる。
あんたか的にはユニフォーム関係のデザインをした関係もあり、4年続けて取材に行った。試合前のロッカールームに入室が許されたり、4年目の取材が終わった時には、「卒業」だということでカレッジリングを作ってもらったことも。
そのケンタッキー大(以下UK)へ行くことになったのは、当時デザイン契約していた株式会社堺(現・株式会社フープスターサカイ)の堺信雄社長から言われたもの。「実はアメリカのケンタッキー大学に小浜さんがコーチ留学しているから取材して来てよ」…と頼まれた。これは初耳、と驚いたのと同時に、「何でこんな素晴らしいことをバスケ協会は発表しないのか?」と思ったことを覚えている。
当時の日本バスケットボール協会って情けないことに、こんな程度…。
まあその話は置いておいて、今まで大学の練習を見たことがなかったので喜んで足を運んだ。
練習場は座席数5,000人程度のメモリアル・コロシアムという古い体育館だったという記憶がある。
練習のやり方で驚いたことは数多くあったが、まず驚いたことは、アップがないこと。列を組んで声を出して走ることはしません。レイアップ・シュートもない。いきなり次の対戦チーム対策。「何番は外からのシュート確率が高いからこうディフェンスしろ」とか、「オフェンスのフォーメーションの確認」とか。NCAAの規則で練習時間の制限があるため、シューティングやアップは各自で練習前に行い、チーム練習だけを行う。数年後に当時鬼のボビー・ナイトがコーチしていたインディアナ大の練習も同じだったことを覚えている。
当時の日本では5対5等での選手交代はコーチが指示していたが、UKでは数プレーごとに外で見ていた選手が入って行き、それに連れて同数の選手が下がる。既に代わる相手は分かっているようで、実にスムーズに代わる。スタッフはほぼ関知していないようだ。
ほぼ全員が同じような時間プレーをしているようだった。
そしてもう一点。プレーから戻った選手は水を飲んでいる!
今から40年以上も前、スポーツ医学が発達していなかった日本の運動部では、練習中水分の補給が禁止されていた。それなのに正々堂々と飲んでいる!!
ちょうどその頃出始めたゲータレードだった。プラスチック製の大きなボトルになみなみと、そしてキューブアイスが浮いたギンギンに冷えたゲータレード!!
そんな冷えた水を飲んだら腹を痛くしないのか? と考えたのは私の胃が弱かったため(笑)。冷えている方が胃での吸収が速いとのことだった。
いろいろ驚いたことはあったはずなのにその2つが印象的すぎて、練習の思い出ははっきり言ってこの2点しか記憶してない(笑)。
練習後案内してくれたのはワイルドキャッツ・ロッジと呼ばれる日本風にいう合宿所。外見はロッジ風に丸太で組んであるが、NCAAは年間の予算の上限があるので、外見をあまり高価に見せない造りにしていたとか。
外見上は平屋風だが、立派な地下室があり、常に過去のゲームを見られるようになっている映写室もあった。当時は16mmフィルムだったが過去のゲームを選手達が自分で取り出し、操作して見られるようになっている。当時としてはかなり珍しい施設だったはず。
選手には5坪ほどの個室が与えられており、その部屋にはスポンサーのネームプレートが貼ってあった。…そう! このロッジは寄付で建てられたもの。
たとえ大学やチーム自身で建てられたものでも年間予算の枠がある。なぜなら良い選手をリクルートしようと多額の経費を使うことを制限するためだ。上限を決めないと「お金持ちの大学に良い選手が集中する」という弊害を避けるため!
大学は週に2~3回ゲーム、年間にして30~50ゲーム程が組まれる。
カンファレンス(日本語訳としては「リーグ」と言うことだが若干違う)に所属する大学はカンファレンス・ゲームと、対戦相手を自分達で決めるゲームがあるが、基本的に「ホーム・アンド・アウエー」方式で2ゲーム行う。
UKの練習場は旧のアリーナだったが、「ラップ・アリーナ」と言う素晴らしいアリーナが1976年に出来て話題を呼んでいた。
このアリーナは、ヘッドコーチとして873勝190敗(勝率)82.2%と圧倒的な実績を上げているアドルフ・ラップ(1931-72)を称えて名付けられた。
専用ではないが、バスケットボールとして使用するアリーナとしては画期的で2万人収容できた。もちろん完成した1976年当時は全米最大で、このラップ・アリーナに刺激されその後大きなアリーナが出来るようになった。
次回は「ゲーム・デー」の様子を書きます。
Lexington(地名)レキシントン。
日本人は「ラ」シントンと発音すると通じる。
アメリカ、ケンタッキー州の中央部やや北に位置している、ケンタッキー大学(UK)を中心とする町。競争馬の牧場と石炭、そしてUKバスケットとアメリカンフットボールで有名。現在は工業も有名になっている。
空港はブルーグラスフィールドと呼ばれ、周りは牧場だらけののんびりした所。田舎町だがニューヨークからの直行便がある。それはUKのゲーム(バスケやアメリカンフットボール)やダービーをニューヨークから見に来るからだと言われている。
メインストリートはほんの100m程(車に乗っていて、よそ見をしたら通り過ぎてしまった)で小さい町だが銀行は大きい。当時の話ですが。
1946年生まれ。
月刊専門誌「バスケットボール・イラストレイテッド」の編集長を経て、バスケットボール用品のデザイナーとして活躍。特にキャラクター「あんたかベイビー」のTシャツは一世を風靡した。日本初のバスケット・ユニフォームデザイナーとしても活躍。当時強豪と言われる殆んどのチーム<実業団-大学-高校>に関して何らかのデザインを手掛けている。またスポーツ界では唯一のファッションのコラムを持っていた。
現在は自身のユニフォーム・ブランド「305」を立ち上た。
NBAに関しては「月刊バスケットボール・イラストレイテッド」編集者時代の1966年から連載を執筆。TV解説はNHK BS以前にも東京12チャンネルで1985年から行っており、日本最古のNBA解説者と言われている。
過去にはスポニチウェブサイトのNBAコラムを担当。月刊バスケットボール及び月刊バスケットボール・マガジン等に連載を持っていた。
横浜の中学・高校バスケの指導者、関係者とのつながりが深く横浜及び神奈川県のバスケ事情に精通している。
現在は横浜をホームとするBリーグ「横浜ビー・コルセアーズ」の名誉広報として情報発信やプレス対応などチームの広報活動に力を注いでいる。
また(社)神奈川県バスケットボール協会広報顧問も務めている。
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