vol.178「アメリカでの備忘録<サンアントニオ編>」
これまでアメリカの多くの街へ行ったが、NYとLAに次いでより多く行った都市としてサンアントニオがある。
日本人にはなじみが薄いだろうが、NBAファンなら誰もが知ってはいると思う。そんなNBAファンでも場所については、テキサス州にあるとまでは分かっていてもどの辺りかと問われるとなかなか出てこないと思う(笑)。
テキサス州は「アメリカ合衆国で一番大きな州」と言われるのが好きで、「何でも最大!」とか一番が好きな人が多い州。台形の形をしたアメリカの中南部でメキシコ湾に面している。詳しくはGoogleMapで調べてもらえればと思うが、メキシコと一番南で隣接している州で、その中でもサンアントニオはメキシコに一番近い都市になる。
アラモ砦(伝道院)は独立前メキシコがアメリカに攻め入った時の最後の砦。軍としては全滅したが、ここで数日間メキシコ軍を足止めさせたことで援軍が間に合いメキシコ軍を打ち破った。ここで負けていたらその後もメキシコ軍に攻め込まれ現在のテキサス州は無かったかもしれない。…もっと言えばアメリカの独立もなかったかもしれない??
<アラモ砦の正面写真>
この時自ら申し出た志願兵がテネシーを始めとする近郊から集まったが、これがボランティアの語源とされている(Volunteerには志願兵という意味がある)。
まあサンアントニオは歴史上そんな重要な都市なのだが、現在はスパーズの本拠地としてはもちろん、全米第7位の大都市だそうだ。
私には田舎っぽくて良い街だったが…。
サンアントニオに初めて行ったのは1985年だったようで、有名な観光地としてアラモ砦とデル・リオ(リバーウォーク)が目玉となっているが、規模は小さかった。
1985年に行ったとき、デル・リオはそれ程整備されていなかったが、1996年NBAオールスターゲームの時はしっかりと護岸が整備されて観光用回遊ボートもあり、立派な観光地となっていた。
1996年の時はNHKのBS放送でNBA中継をしていた関係で便乗させて貰った。
この時、実はデル・リオ近くのアイスクリーム屋さんでディケンベ・ムトンボを見かけた。小さな店内でオールスター・ウイークエンドと言うこともあり店内はギュウギュウ詰めだったが、一人肩から上が出ている人物を発見。
…そりゃ218cmもあれば完全に浮いてるよね(笑)。
<メディア・パス 報道機関としての入場券みたいなもの>
3度目からは「手慣れたもんで風」にレンタカーで空港からホテルへ行ったが、感じていたイメージ以上に大きな都市に変貌していて、ナビがなかったらホテルへたどり着けなかったと感じた。この頃には「アラモ砦とデル・リオだけの街」ではなくなっていた。
初めて行ったときのスパーズのスターは「アイスマン」と呼ばれたジョージ・ガービン。冷静なシューターで、ボールを右肩に担いで放つ独特なシュート・フォームだった。また「フィンガーロール」と呼ばれたレイアップ・シュートも彼の代名詞で、得点王に4度輝いている。
スパーズは元からスパーズだった訳ではなく、1967年ABAリーグ(アメリカン・バスケットボール・アソシエーション…1967年~1976年まで存在したNBAとは別のプロバスケットボールリーグ)の「ダラス・チャパレルズ」としてスタートし、1973年にサンアントニオへの移転から「サンアントニオ・スパーズ」となった。スパー(SPUR)とはカーボーイ・ブーツの踵についている拍車のこと。
1976年のABAの消滅とともにNBAに加入した4球団の内の1つで、最初にNBAファイナル優勝を達成している。
初めて行ったアリーナはダウンタウンに有った「ヘミスフェア・アリーナ」という円形の古い建物で、プレーしていたのは「アイスマン」だった。対戦相手もゲーム内容も覚えてない(汗)…。
終了後、アイスマンが私の横を通っていたことだけを覚えている。
<ヘミスフェア・アリーナ>
このアリーナは数年後に取り壊され、チームは一時屋内フットボール場の「アラモドーム」に移転したが、NBAのレギュラー・シーズン・ゲームでは5万人の器は大きすぎで、カーテンで1/3程に仕切って使っていた。オールスターとNCAAファイナルフォーでは全面開放だったはず。
<レギュラーシーズンはこの様に黒いカーテンで仕切って開催していた>
成績としては、(歴史が違うこともあり)セルティックス18回、レイカーズ16回に及ばないが、5回優勝をしている。近年では1997年にティム・ダンカンを獲得して以来22シーズン連続でプレーオフに出場していた。
*スターがいた
セブン・フッター(7フィート=213㎝)として活躍したデビット・ロビンソン。
海軍兵学校卒業という変わった経歴を持っていることから「提督」と呼ばれた。最初の「ドリーム・チーム」のメンバー。
<オールスターゲームの練習でインタビューを受けるデビット・ロビンソン>
ロビンソンの次のスーパースターはティム・ダンカン。
<インタビューを受けるティム・ダンカン>
「ミスター・ファンダメンタル」と呼ばれた基本に忠実なビッグ・フォワード。派手さは全然ないため人気は今一であったが、遠めの「バンク・ショット」が得意というあたりは玄人受けする選手で、「ロビンソンとダンカン」の2人でツイン・タワーと呼ばれた。
そこに2人の外国人が居た、フランス人のトニー・パーカーとアルゼンチン人のエマヌエル・ジノビリ。
<トニー・パーカー> <エマニエル・ジノビリ>
この2人のガードが加わり黄金時代を作り上げた。
このチームは見ていて楽しかったし、今でも楽しい!
パーカーやジノビリのスピードあふれ、スキルも使うATB(Attack The Basket)を多用した。さらに簡単にスリーを撃つ傾向が強いNBAに於いて、素早いパスを多用し、ディフェンスを引き付けてはパス、また引きつけてはパスするという相手ディフェンスを翻弄するパスワークは面白いし、また相手ディフェンスをおちょくっているな…と笑ってしまう。
そしてこのチームを指揮しているのが知将グレッグ・ポポヴィッチ。
戦略家でありバスケIQが高い(この書き方が正しいのかは分からない)が、このチームは海外出身の選手が多いこともあり、上記の様にパワーやスピードに頼ったプレーではなく、頭を使ったプレーが多いのも特徴の一つで、私が好きな「プレースタイル」だ。
最近は3Pが撃てるセブンフッターのビクター・ウェンバンヤマの加入で再び注目を浴びている。
ウェンバンヤマの成績やプレースタイルについては検索すればすぐに沢山出てくるのでここでは端折ることにする。
*アリーナのチームグッズ・ショップ
最初のへミスフェア・アリーナでは売店らしきものは覚えていないが、AT&Tセンターでは大きなショップがあった。当初は小さくてあっけなかったが二度目に行ったときはピンクがメインの女子用アパレルが目立った商品構成だったことを覚えているが、3度目の時は上の写真の様にドーンと大きくなっており商品構成も多くなっていて、さらに驚いた。なにを買ったかは覚えてない(汗)…。
レイカーズのステープルズ・センターと同じような規模だった気がする。その頃になるとチーム・グッズにはそれ程興味なかったので、たいした買い物はしてないはず。
*初めて行ったSAのアウトレットモール。
当時、日本にはない形態のショッピング・センターで、型落ちや売れ残り品を廉価でメーカーが直接販売するお店が集まっている所が大都市の郊外にあると話には聞いていた。特にLAの郊外が有名だったが、それがSAにある…と言うので行って見た。エルパソへ繋がる10号線と環状線が交わった辺り。ハッキリとは覚えてないが、周りは砂漠で寂しそうな場所。出店していたのはスポーツ関係ではadidasとNike程度だったかな?
バッシュが少なくウォームアップス類が多かったためか、当時は魅力的ではなかった。それよりもアパレルの方に興味が湧いたが、結局ほとんど買わなかった。日本のアウトレットモールの様なワクワク感はなかった。出来たばかりで建物も粗末だった上、商品も充実していなかったためだと思うが、まだ私自身もアウトレットの楽しみ方を知らなかったからかもしれない。
1946年生まれ。
月刊専門誌「バスケットボール・イラストレイテッド」の編集長を経て、バスケットボール用品のデザイナーとして活躍。特にキャラクター「あんたかベイビー」のTシャツは一世を風靡した。日本初のバスケット・ユニフォームデザイナーとしても活躍。当時強豪と言われる殆んどのチーム<実業団-大学-高校>に関して何らかのデザインを手掛けている。またスポーツ界では唯一のファッションのコラムを持っていた。
現在は自身のユニフォーム・ブランド「305」を立ち上た。
NBAに関しては「月刊バスケットボール・イラストレイテッド」編集者時代の1966年から連載を執筆。TV解説はNHK BS以前にも東京12チャンネルで1985年から行っており、日本最古のNBA解説者と言われている。
過去にはスポニチウェブサイトのNBAコラムを担当。月刊バスケットボール及び月刊バスケットボール・マガジン等に連載を持っていた。
横浜の中学・高校バスケの指導者、関係者とのつながりが深く横浜及び神奈川県のバスケ事情に精通している。
現在は横浜をホームとするBリーグ「横浜ビー・コルセアーズ」の名誉広報として情報発信やプレス対応などチームの広報活動に力を注いでいる。
また(社)神奈川県バスケットボール協会広報顧問も務めている。
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