vol.175「ビーコル23-24シーズン振り返りと50年前のアメリカでの備忘録」
ビーコルのBリーグ23-24シーズンを簡単に振り返ってみよう。
開幕戦はホームでなく残念ながらアウェーの京都戦。
このカードは順当に2連勝と行きたいところだったが、ゲーム②で77-75とギリギリの勝利。
次の群馬はビーコルと同じレベル(最終的に31勝29敗・東地区4位)。となれば2連勝…悪くても1勝1敗でなくてはいけないのに2連敗してしまった。
次節の琉球戦は1勝1敗として、さすが強豪に強い(別名・ジャイアントキリング)ビーコルらしさを示した。
そして5月5日の最終川崎戦まで終え、24勝37敗と言う寂しい成績で23-24シーズンの幕を閉じた。
数字だけで振り返ってみると、連勝は「3」が最高とは少し寂しい。それも2回だけだ。
Bリーグには同一相手2連戦という独特のスケジュールがある。それは集客や報道の点からどうしても週末の土日の2日に開催したいからだ。そうすることで移動が減り経費を抑えられるからだ。
将来的に人気が出ればNBAやプロ野球のように平日開催も可能だろうが、現状ではリーグ主導で多くのチームが平日開催は隔週の水曜日に固定し、土・日―土・日―水―土・日―水―土・日のルーティーンにしている。
カード毎のビーコルの勝敗を見ると、同一カード2連勝は2回。それに対し同一カード2連敗は9回あった。
2連敗は我慢できないことだが仕方がない面もある。それは相手が宇都宮やA東京、琉球のような超上位チーム(私の考えではシーズン40勝以上のチーム)には未だ歯が立たず1勝1敗で上等。しかし同レベル又は弱いチームには2連勝しないといけないと思っている。
上記の観点から23-24のビーコルは弱いチームだったと言える。
「1勝1敗」について考察すると、ゲーム①に勝つチーム…仮にⒶとしよう…Ⓐは対戦相手に関するスカウティング、特にディフェンスに関してかなり行い、ゲーム①までその対策練習を行い、ゲーム①で練習通りプレーして、相手がその対策に対応できる前にゲームを終えて、結果として勝利する。
しかしゲーム②では相手チームはⒶの「対策に対する対策」を立てて対応する。ところがⒶはその先までの練習はできていないため、元々力が足らないⒶは破れてしまう。
という観点からゲーム②に勝ったチームの方が強いと思っている。
その一番の原因はインサイド(以後I/S)の弱さだと思う。
I/Sはバスケの基本。スリーポイント(3点)シュート全盛の現在も、リバウンドがあるからこそスリーが活きる。「リバウンドを獲ってくれる人がいると安心して外からシュートを撃てる」とはシューターがよくする言葉だ。そして当然ながらリングに近いところでのシュートは確率が高く、またファールをもらう確率が高い。
ではビーコルの確率31.7%のスリーと54.6%のI/Sのシュートではどちらの得点効率が良いのだろうか?
<シュート確率はBリーグ23-24シーズンのデータより>
単純に計算すると[3×0.317]対[2×0.542] ➡0.953対0.951
若干3Pの方が高い。しかしI/Sのシュートには相手ファールと言うおまけが付いてくる確率が高い。
河村は例外としてFTA(フリースロー試投数1ゲーム平均)はカイ・ソット、スコット、オリバー、ユトフ等々I/Sを攻める選手が多くなっている。そして相手からファールを取ると言うことはバスケでは重要なこと。ご存知のように選手は1ゲームで5個以上ファールはできないからだ。多くの場合、前半で2ファールするとベンチに下げざるを得なくなるわけだ。等々考えるとI/Sでの得点が勝敗に影響することが分かる。
そのI/Sを23-24シーズン担っていたのがスコットだったが、膝の調子が思わしくなかったことが響いて勝利に導けなかった。
それをカバーするために獲得したのがカイ・ソット。腰の怪我で長期離脱していた広島からレンタルで獲得した。年末の12月30日vsシーホース三河戦から出場、いきなり勝利した。その後は220cmの長身とソフトタッチなシュート力のカイ・ソットをチーム全体が活かし、3月24日の長崎ヴェルガ戦ゲーム②までは11勝10敗だった。
しかし徐々にソット対策を立てられ、安直な高いパスはカットされるようになり、簡単には勝てなくなった。
チーム全体が「ソットを使おう」とし過ぎ、ビーコル本来のリズムを失ったうえ、他チームはそのパスやプレーを抑えるようになった。ソットに頼り過ぎだったわけだ。
ゲームに負けると河村勇輝は、記者会見で「PGとして力がなかった」とか「自分のミスで…」と敗因のすべてが河村自身にあると発言をしてきたが、半分はその通り。だが問題なのは、ミスを起こしたことではなく、なぜ起こしたのか、と言うこと。
終盤になると、ずっと河村がボールをキープして、自分がシュートへ行くか、引き付けてアシストを狙うかということになるが、私に言わせると「ボールを持って、ドリブルしながらチャンスを狙っているとはいえ、その時間が長すぎる」。これでは相手チームが考える時間や準備する時間を十分に作れてしまううえ、アシスト・パスにせよシュートにせよ、ボールの出所は河村なのでディフェンスからすると河村に集中してればいいのでやりやすいはず。
結局はクラッチ・シューター河村のシュートに勝敗を委ねることになってしまうが、いくら河村が優れたクラッチ・シューターとはいえ土壇場でずーっとボールを持ち続け2連続、ましては3連続でクラッチ・シュートを決めることは難しい。一度パスをしてから動いてボールをもらうとか、工夫があっても良かった気がする。
第2の原因として考えられるのは「セコンド・ユニット」の得点力の少なさ。
22-23シーズンは森川正明をスタメンからセカンド・ユニットの中心に据え、ディフェンスだけではなく得点力を増強させ、スタメン以外の平均得点合計36.4点はチーム得点の44.2%も占める活躍をしてプレイオフ進出の原動力となっていたが、残念なことに23-24シーズン森川は長崎へ移籍してしまった。
キング開はある程度得点を重ねたが、杉浦佑成、西野曜、松崎裕樹にはもうひと頑張りして欲しかった。
その意味でも大庭岳輝の怪我による長期欠場は青木勇人ヘッドコーチの計画を狂わせことになった。大場のスリーは誰もが期待していただけに残念だった。
ただ、終わったシーズンをあれこれ言ってもしょうがない。24-25シーズンへの期待を考えた方が良いだろう。
まず、23-24シーズンで契約満了した選手を挙げてみると、外国籍選手全員満了して総入れ替えとなったが、これは良い方法ではない。最低1人は残留させておかないと外国籍選手の繋がりがなくなり、ビーコルの文化が継承できず、新しい文化作りが必要になる。
それは日本人も同じことで、良い選手を集めたからすぐに優勝できると言うほど甘くないことは皆さんもご存じと思う。
外国籍選手も含め核(コア)になる選手はキープしながら数名ずつ入れ替えすることが良く、上記の様にチームは1年じゃ作れないから、河村だけ残せばいいわけじゃない。チーム作りは数年掛かるので長期展望が必要になる。
新加入選手として期待したいのは、第一にコアになるI/Sの外国籍選手。器用じゃなくてもしっかりリバウンドを獲り得点してくれる琉球のジャック・クーリーのような軸のしっかりしたゴッツイ選手。もちろんハートがよくなくてはダメ!
島根のビュフォードのような、3Pも撃てATB(Attack The Basket…ドリブルで攻め込むこと)できる外国籍フォワード。そしてユトフのような外からも攻められる外国籍選手。
そこに馬場雄大や吉井裕鷹、金近簾のような「得点力のある日本人大型フォワード」。できれば日本代表レベルのビッグネームが欲しい。今までビーコルにはいなかったタイプ…強いて言えば21-22に在籍していた赤穂雷太にスピードとシュート力を付けような、また須藤と開の身長を10cm高くしたような選手。
有名でなくてよいので純粋なPG。現在はNBAスタイルの得点できるPGの河村と純粋PGな森井健太の2人しかいなかったため、プレータイムのシェアにおいてかなり苦しいゲームがあった。この2人を前後半各4分程度休ませられる選手が欲しい。
過去は資金繰りに苦しんでいたシーズンもあったが、それまでとはチーム運営の土台もしっかりしてきているので、選手補強に資金を充てて良い選手を獲得して欲しい。
24-25シーズンはCS出場を、そしてその選手をほとんど入れ替えず25-26に優勝を目指して欲しい。
そう言えば、退任した青木勇人ヘッドコーチの代わりは誰になるのだろうか??
■高校関東大会神奈川県予選<令和6年度神奈川県高等学校春季バスケットボール大会 兼 第78回関東高等学校バスケットボール選手権大会神奈川県予選会>
毎年ゴールデンウイークに決勝が行われる関東大会予選。本大会は男子が埼玉県で6月1日(土)・2日(日)、女子が東京都で6月8日(土)9日(日)開催された。
【男子】
ベスト4常連の東海大相模高(以下東海)は、主力選手達が体調不良により欠場となり2回戦で姿を消し、星槎湘南高(以下男女共星槎)がベスト4に食い込んだ。そして横浜清風高(以下清風)も準々決勝で県立荏田高(以下荏田)に55-68で敗れ、常連校の2校がベスト4入りできなかった。
この結果で、インターハイ県予選の組み合わせが大変なことになった!
…と言うのはインターハイ(以下IHと略す)へは神奈川県から男女各2校が出場権を得るが、勝ち上がってきた40校を4ブロックに分け、その勝者4校によるリーグ戦を行い、上位2チームが出場権を得る。
毎年ブロック分けに関心が集まるが、基本となるのはこの関東大会予選の結果から、ベスト4が各ブロックの第一シードに配置され、ベスト8チームが第二シードに振り分けられる。
今まで男子では桐光学園(以下桐光)、法政二、東海に湘南工科大附属(以下テック)、清風が「5強」とされ、その中で関東大会予選の5位がIH予選でどのブロックに振り分けられるのか興味津々だったが、今年度最大の注目は東海の行方だった。
すでに組み合わせは決まり、2回戦まで行われているが、東海は桐光のブロックだった。
これは面白そう(笑)
関東大会予選に話を戻そう。荏田がいいチームを作ってきた。ディフェンスが強くスリーの確率も高く、6人程使えそう。3位決定戦では留学生を擁する星槎に終盤で追い付かれたものの、スリーとFTを決め逃げ切った。数年前の県立上溝南高を思い出させる。公立校のベスト入りは嬉しいものだ!!
男子3位決定戦・星槎湘南(白)vs県立荏田(紺)
ざっと見た感じだが、桐光と法政が頭一つ抜け出ていて、テック、荏田、星槎、清風がそれに続いている。
結果は一般社団法人神奈川県バスケットボール協会のサイト内のPDFで。
IH予選ではブロック決勝のAブロック⁻桐光vs東海、Bブロック‐法政vs清風、Dブロック‐星槎vsテックが面白そう。
【女子】
女子は相変わらず鵠沼が強い。
問題は2番手の星槎がどこまで追い付けるのか? そしてそれに続く相模原弥栄、横浜立野、松陽等公立高の頑張りに期待したい。
鵠沼は昨年、一昨年からゲームに出ている選手が多くお互いのプレーも良く知っており、ATBからディフェンスを引き付け短いパスを多用するスタイルで、I/Sの得点に加え、スリーも多く、確率もよい。
星槎は高さを活かし外からパスを入れるスタイルだが、そのプレーは読まれていて楽にシュートが撃てない。ガードがI/Sを上手く使えるようになれば星槎も勝ち目が出てくると思うが、未だまだ足元に及ばない状況だ。
女子決勝・鵠沼(白)vs星槎湘南(青)
男子の桐光、法政、女子の鵠沼は神奈川県での優勝ではなく、最低でも関東、そして日本国内での強豪チームとなって欲しい。
結果は一般社団法人神奈川県バスケットボール協会のサイト内のPDFで。
■忘備録<初渡米 その2>
1973年3月23日、念願と言うか憧れのボストン・セルティックスのゲームへ。
NYからボストン空港へ着きホテルへ行こうとタクシーを探していたら空港の係員がホテルを聞いてきたので「スタットラーヒルトン」と言ったらあのバスに乗れと言って来た。市内の高級ホテルを循環するシャトル・バスだったが、初渡米でそんなことも知らず言われたまま乗車したが何軒かの後、スタットラーヒルトンで降ろしてくれた。
<セルティックスのメディアガイド(スタッツ等も含んだチームガイドブック)表紙。人物はビル・ラッセル>
部屋に入り田口氏が書いてくれたセルティックスの電話番号へ電話するが、今まである程度の会話(多分そこまでは行ってないと思うが)は出来たが、それは目の前に相手がいるためボディー・ランゲージが中心だった。電話ではそれが出来ず、冷たい汗が流れた。
相手は「Howie McHugh」と言う広報担当者だが電話に出た相手は当人ではない。「ハウィ・マヒューと話しをしたい」と言ったが当然通じない(汗)。
「プレス・エージェントとか言っても通じず、スペルを言ってやっと解ってくれた(大汗)。…どうやらホーウィー・マキウと発音するらしかったのだ。
早速ボストンガーデンへ。ホテルのボーイへ「ボストンガーデンへ行きたい」と言ったら「どこどこからストリートカーに乗ってどうのこうの」と言ってたが、聞き取れなかったので手っ取り早くタクシーで。ところがタクシーに乗っても運転手に「ボストンガーデン」と言った発音が通じず苦労したが「バスケットボール・コート」でやっと通じた。
着いたところはガード下のゴミゴミしたところ。建物の全体像は見えなかったが入口はすぐに分かった。係員に「ホーウィー・マキウ氏に会いたい」と言ったが、単なるモギリの係員らしく全然通じず、おばちゃんが出て来て説明したら「報道関係者の入口はここではなくあっちだ」と説明してくれた。どうやら隣のビルから入るらしい。NBAではプレスの入口は大体が建物の裏側にあるのが多いが隣のビルから入るのはここだけだろう(笑)。
エレベーターで屋上まで行き、橋を渡ってボストンガーデンへ。こんなスペシャルなことはこれまでもこの後もなかった。
屋上の建屋にプレス受付けがあり、そこでマキウ氏を呼んでもらったが、予想通り色々あって30分程待たされた。
やって来たマキウ氏は赤のブレザーを着た優しいお爺ちゃんで、ロッカールームへ連れてってくれ選手やコーチを一人々紹介してくれ、舞い上がる気分だった。初めて入ったNBAのロッカールーム、ここが広いのか狭いのかとか、きれいなのかそうでないのか分からなかったが、狭くて暗かったけどそんなものなんだと思った。
そこでジョン・ハブリチェック選手とジョジョ・ホワイト選手の2人は来日した時に話をしたことがあると言ったら喜んでくれた。
気が付いたことは床の絨毯(マット?)がグリーンだったので、「あぁこれがセルティックスなんだ!!」と。
その後専属カメラマンを紹介してくれ「この後は彼の指示に従ってくれ」と言われ、彼とコートへ出た。カメラマンのスペースは日本と同じでエンドラインの外側、リングの左右になる。「どこで撮ってもいいよ」と言われ、途中からリングの支柱の間に入って真下から撮影した。
この時のガーデンの支柱は古いタイプで4本のパイプで支えられている初めて見るタイプだったから撮影したが、誰もそこからは撮影してない。ゴール下のシュートをほぼ真下からの撮影。かなりシャッターを切ったが当時はフィルムの巻き上げ(死語になっていると思うけど)は手動なので、1秒間で3ショットがいいとこかな?
今の人は分からないだろうが、写真というと当時はフィルムだったため、撮影直後に撮影したものを見ることなど当然できず、帰国後写真屋さんへ現像に出し、翌日現像されたものとフィルムを取りに行くわけだが、胸がドキドキで。
でもほとんどが手振れだったりタイミングがずれていたり手の先が枠からはみ出していたりでガッカリが多い(笑)。
<ボストンガーデンの天井にはセルティックスとアイスホッケーのブルーインズの優勝時のバナーが何枚も吊るされていて歴史を感じる>
当日のゲーム相手はアトランタ・ホークス。主力スターはピート・メラビィッチ。父親がコーチをしていることもあり天才的なプレイヤーだったが、ボールを離さず、ほとんど自分でシュートしてしまう。あれだけ撃てば得点も多くなるよな…見たいと思った選手の一人であるが、凄い選手と言うほどじゃない。白人と言うこともあり大学時代からの人気選手。
長くなったので「初渡米その2(ボストン編その1)」はここまで。
次回はゲーム中やゲーム後のロッカールームの話をしよう。
1946年生まれ。
月刊専門誌「バスケットボール・イラストレイテッド」の編集長を経て、バスケットボール用品のデザイナーとして活躍。特にキャラクター「あんたかベイビー」のTシャツは一世を風靡した。日本初のバスケット・ユニフォームデザイナーとしても活躍。当時強豪と言われる殆んどのチーム<実業団-大学-高校>に関して何らかのデザインを手掛けている。またスポーツ界では唯一のファッションのコラムを持っていた。
現在は自身のユニフォーム・ブランド「305」を立ち上た。
NBAに関しては「月刊バスケットボール・イラストレイテッド」編集者時代の1966年から連載を執筆。TV解説はNHK BS以前にも東京12チャンネルで1985年から行っており、日本最古のNBA解説者と言われている。
過去にはスポニチウェブサイトのNBAコラムを担当。月刊バスケットボール及び月刊バスケットボール・マガジン等に連載を持っていた。
横浜の中学・高校バスケの指導者、関係者とのつながりが深く横浜及び神奈川県のバスケ事情に精通している。
現在は横浜をホームとするBリーグ「横浜ビー・コルセアーズ」の名誉広報として情報発信やプレス対応などチームの広報活動に力を注いでいる。
また(社)神奈川県バスケットボール協会広報顧問も務めている。
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