Vol.4 フライヤージム
フライヤージムって知ってますか?
若い頃東京にいた私にとって、横浜は一つの憧れでした。元町があってお洒落な街です。フクゾーの七分袖ブラウスを着た女の子とポンパドールのチーズバタールをちぎって食べながら元町を散歩、ウィンドウショッピングするのは憧れでしたよ。特に東京でも23区の一番外れの練馬区という田舎に住んでいた私にとっては、年に一度か二度程度しか来られない街でしたからね。それにハマっ子は可愛い子が多かったし、お世辞抜きですよ。まあ例外はどこにでもありますが(笑)
バスケットの話をしましょうね(^_^;)
何十年前だか忘れるほど大昔(笑) 私が学生時代だったと思いますが、当時バスケットの専門誌の編集記者のアルバイトをやっていた頃です。確か関東大学リーグの取材だったと思います。関内駅前にあるフライヤージムへ初めて行きました。今の横浜スタジアムの敷地内、駅寄りの広場辺りです。
★左上のかまぼこ型の施設が“フライヤージム”(写真提供:横浜市史資料室)
ハマのイメージにピッタリの体育館だったのです。私の中では「ハマ=バタ臭い(死語ですね、西洋風という意味です、お洒落というイメージも有るかもしれません)」なので、とてもアメリカンな体育館だったため、そう感じたのでしょう。
外観は、かまぼこ型の屋根です。もうこれでグッと引き付けられました。
今の人にはわからないでしょうが、進駐軍(これも死語です(笑) 戦争後日本に来たアメリカの軍隊です)の体育館はどの基地でもこのかまぼこ型の体育館なんです。安く作りやすく、撤収も簡単に出来そうなので、この形になったのでしょう。今思えばいかにも個性が無く、逆にアメリカ的です(笑)
でも当時はアメリカのモノはバスケットも含め、全てカッコよくて、私はリスペクトしていたので、つかみはOKです。
OKなのは外観だけではないのです。やや薄暗く小さい感じでしたが、そこは憧れのアメリカン・バスケット・ワールドでした。一度もアメリカの体育館へ行ったことはないのですが、自分の頭の中で作られたイメージはこれだったのです。もしかすると逆かもしれませんが。
一番アメリカンと感じたのはフロアから続く作り付けの観客席です。小さいながらも階段状の客席があったのが、当時日本にはなく新鮮に感じて、そして初めて見たという驚きもあったでしょう。「スポーツ=観客あり」というアメリカの考え方に接した瞬間でした。
その時は観客が満員で、一面しかない小さなフロアにも観客は溢れ、シュートの一つ一つに歓声が沸きます。その音がかまぼこ型の天井から跳ね返ってきて大歓声になって小さな室内に響きます。これがゲームを盛り上げ、よりエキサイティングなプレーを誘い出します。まさにバスケット専用といえる体育館、いや「ジム」という英語の方が合いますね。
今回資料を取り寄せ調べたところ、実際は二面取れ、それほど小さくは無かったようです。何故小さく感じたのか定かではありません、というか忘れました(笑)
これは憧れの体育館でした。たった1回しか行ったことがなかったのですが、40年ほど経た今でも覚えているくらいです。
★フライヤージムの内部イメージです。40年近く前なのでどうしてもセピア色になっちゃいます。
いつかは作ってみたいと思っていたバスケット専用のジム(敢えてジムなんです(笑))のモデルはこれなんです。現在は完全な夢でしかありませんが(笑)
普段は練習用として2面を使い、ゲームの時は真ん中のペイントされたメインコートにして、サイドには引き出し式の椅子で500〜1000人程度が座って応援できるジムです。自由にシューティングしたりストバスが出来るように、外壁にもリングを張り付けます。
中途半端な体育館はいりません。こんな体育館を市内に何箇所か、いや一箇所でも良いから作って欲しいです。
老後は住み込みでそこの管理人をやりたいので。
今回はフライヤージムについて調べてみましたが、進駐軍のものだった所為でしょうか大した資料は残ってません。
名称の由来は、米陸軍の兵士エルマー・フライヤー氏の栄誉を称えられて名付けられたものです。正式には「フライヤーズ・ジム」です。
初めは伊勢佐木町のど真ん中にあって、その後ハマスタの傍へ移転されました。
最初の国体でも使用され、バスケットに関しては昭和26年(1950)の第2回五大都市大会で会場となってます。前年の3月に初の日米女子バスケット交歓大会が開催されたとありました。
いつ解体されたのかはわかりませんが、神奈川新聞によると昭和33年(1974年)までは使用記録が残ってます。また「横浜文化体育館 40年のあゆみ(昭和37年5月〜平成14年12月)」には建設中(完成した?)の横浜文化体育館とフライヤージム両方が写っています。ちなみに横浜文化体育館は昭和37年オープンです。
なおフライヤージムについての調査は横浜市行政運営調整局総務部法制課 横浜市史資料室 久野淳一氏にご協力をいただきました。深く感謝いたします。
★左:フライヤージム、中央:横浜市庁舎、上:横浜文化体育館
(「横浜文化体育館40年の歩み」/写真提供:神奈川新聞社)
前回の宿題の答えです。
頚椎損傷の人は指先でつかんだりすることが苦手な人が多いため、また手を保護するため軍手をはめている人もいて、皮革製の公式ボールでは滑って持てません。その上床のボールを拾い上げる時は、動いている車椅子のハンドル(ホイール)部分に押し付けて、回転して上がってくることを利用してボールを持ち上げます。ですから表面の凸凹が激しいグリップ性の高いゴムでなおかつ小さい5号ボールが使われるのです。
1946年生まれ。
月刊専門誌「バスケットボール・イラストレイテッド」の編集長を経て、バスケットボール用品のデザイナーとして活躍。特にキャラクター「あんたかベイビー」のTシャツは一世を風靡した。日本初のバスケット・ユニフォームデザイナーとしても活躍。当時強豪と言われる殆んどのチーム<実業団-大学-高校>に関して何らかのデザインを手掛けている。またスポーツ界では唯一のファッションのコラムを持っていた。
現在は自身のユニフォーム・ブランド「305」を立ち上た。
NBAに関しては「月刊バスケットボール・イラストレイテッド」編集者時代の1966年から連載を執筆。TV解説はNHK BS以前にも東京12チャンネルで1985年から行っており、日本最古のNBA解説者と言われている。
過去にはスポニチウェブサイトのNBAコラムを担当。月刊バスケットボール及び月刊バスケットボール・マガジン等に連載を持っていた。
横浜の中学・高校バスケの指導者、関係者とのつながりが深く横浜及び神奈川県のバスケ事情に精通している。
現在は横浜をホームとするBリーグ「横浜ビー・コルセアーズ」の名誉広報として情報発信やプレス対応などチームの広報活動に力を注いでいる。
また(社)神奈川県バスケットボール協会広報顧問も務めている。
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